私
第34話
心なしか、いつもより体が軽やかで、跳躍能力の調子も良いような気がした。
鈴木君との仲直りを祝福してくれるかのように穏やかに吹く風を全身に受けながら、私は蝶が花々の合間を飛び交うように、島々の間を渡り歩いてゆく。
島々もタイミング良く降りたい地点を周回してくれており、私はマンション島を出てから僅か数十分で、マンション島のちょうど真下くらいに位置する最下層の島まで辿り着いてしまった。
そして私は、そこから更に水面が近い島を探して跳び移る。
私がやってきたその島は、以前小学校島から落下した時に訪れた畑と鉄塔のある島ではなく、コインランドリーと古い民家が数軒あるだけの島だった。
水面近くを浮いているといっても島の厚さがあるので、島の上から水面までの距離は十メートル以上はある。
用意してきたお弁当をコインランドリーの中で食べた私は、少し腹休めをした後に、海の調査に取り掛かる事にした。
まず私は島の端まで歩き、落ちないように四つん這いになってから水面を覗き込む。
風があるせいか僅かに波が立っているが、水面はやはり驚く程に透明で、かなりの深さまで見通す事ができる。しかし、海底を目視する事はできず、まるでこの世界には大地というものが存在せずに、星全体が水の塊でできているのではないかという錯覚を受ける。
星とは言ったが、私が今いるこの世界が地球のように惑星の上に成り立っているかは、当然ながらわからない。しかし、水平線が丸みを帯びているし、月や太陽を観測できるので、多分星の上なのだろう。なんならここは未来の地球という可能性もあり得る。
しばらく水面を眺めていると、あの意識を吸い取られるような感覚が襲ってきたので、私は慌てて顔を引っ込める。
以前も感じた事だが、やはり怖さとは少し違う感覚だ。
むしろ眠りにつく時のような穏やかで温かな感覚すらある。
例えるならば、小春日和の空へとゆっくり幽体離脱をしていくような感覚だろうか。
それが海の中へと誘い込まれているようで、ある意味怖いといえば怖い。
潮の香りがしない事からも考えて、この海がただの海ではない事は間違いないだろう。
海の調査の方法は、私なりに一応考えてきてある。
調査その一。
まず私は、その辺に落ちていた大きめの石を海に投げ入れる。
石は音も立てずに着水し、海底へと沈んでいった。
うん、何もわからない。
でも、ちゃんとした調査はまだこれからだ。
調査その二。
私はリュックサックの中から付箋のような物を取り出す。
それは、小学校島の理科室から拝借してきたリトマス試験紙の束であった。
海が酸性だかアルカリ性だかわかったところでどうなるわけでもないだろうが、こういう細かな情報の積み重ねが、いつか真実に辿り着く……のかもしれない。
私はリトマス試験紙の束に糸をくくりつけ、更にテープで固定して、釣りをするように水面へと垂らす。そして十分に糸を下ろしてから引き上げた。
すると、調査その二にして早速不思議な事が起こった。
海から引き上げたリトマス試験紙が濡れていないのだ。
水滴も滴らないし、触れてみてもただ乾いた紙の感触があるだけである。色も変わっていない。
二度三度と試してみたが、リトマス試験紙はやはり濡れなかった。
あの海に溜まっているものは液体ではないのだろうか。
しかし、風に波打つ様子は明らかに液体のそれである。
あの液体は物体に干渉しないという性質があるのだろうか。
この世界に来て初めて、何かが分かりそうな気がした。
調査その三。
次に私は、釣りなどで使う折りたたみ式のビニールバケツをリュックサックから取り出す。そして取っ手の部分にロープをくくりつけ、海に投げ込んだ。
そう、私は海水……と呼んでいいのかわからないが、海に溜まっている液体を汲み上げてみようと考えたのだ。
もしかしたら液体はバケツをすり抜けてしまうのではないかと思ったが、ロープを引く私の手にはずっしりとバケツが液体を汲み上げた重さが伝わってきた。
中身をこぼさぬように、そして誤って海に落ちないように、腰を下ろした状態で慎重にバケツを引き上げると、中にはトプトプと液体が揺らいでいた。
クンクンと匂いを嗅いでみるが、やはり潮の匂いはしない。
そして近くで見てもまるでガラスのように透き通っている。
リトマス試験紙の時と同じように、ロープやバケツの外側は濡れていない。
バケツの中の液体を眺めていると、やはり意識を引き込まれそうな感覚があり、私は顔を背ける。
この液体の正体がなんなのかはわからないが、とりあえずサンプルは確保しておこう。もしかしたら何か他の物にかければ何かが起こるかもしれない。
私はサンプル確保のためのビンを入れてきてあるリュックの方へとバケツを運ぶために、立ち上がってバケツを持ち上げる。
すると。
ちゃぷん
私が立ち上がった事によりバケツに満たされていた液体が波打ち、水滴が私の左手に付着した。
すると、左手から一瞬にして力が抜け、私はバケツを取り落とす。
バシャッ
落下する際にバケツは液体を撒き散らし、私の膝から下の両足を濡らした。すると今度は両足の感覚が消え、私は大きく後ろへよろめく。そして、崖の端から足を踏み外した。
落下する感覚に、背筋にゾクリとしたものが走る。
「あっ……!?」
私は咄嗟に右手で崖を掴み、島からぶら下がった。
落下の危機を免れた私は両手を使って崖上へとよじ登ろうとするが、左腕は持ち上がるものの、手には力が入らない。
「あ……あ……」
落ちる。
このままでは海に落ちてしまう。
海に落ちればどうなってしまうのか、それを想像する余裕すら私にはなかった。
鍛えてもいない私の右腕では崖に上がるどころか、三分もぶら下がっていられないだろう。
「だ、誰か……」
声を上げてはみるが、この世界で通りがかりの人などいるはずもない。この世界には私と、今頃は遥か上空の天空マンションにいるだろう鈴木君しか存在していないのだ。
いや、もしかすればどこかにいるかもしれないが、その人物が都合良くこの場に現れる確率は、宝くじの一等が当たるよりも低いだろう。
下を見ると、恐ろしい程に透明な水面がこちらを見上げている。
まるで私が落ちて来るのを待ち構えているかのように。
こちらにおいでと手招いているかのように。
嫌だ。
私は水面から視線を切り、上空を見上げる。
そこにはただ無数の島底と、島々の合間から見える青空があるだけだ。
崖に捕まる指先が痺れ始め、右腕が痙攣を始める。
それだけじゃない。
液体に触れた左手と両足から、まるで命そのものが抜け落ちてゆくかのように力が抜けてゆく。
更に、意識までもが遠のき始めた。
このまま海に落ちれば、もう二度と鈴木君に会えないのだろうか。
鈴木君なら、きっと私がいなくなっても一人で逞しく生きてゆくだろう。
でも、どうせなら、ちゃんとお別れをしたかった。
諦めが、私の心を満たそうとしていた。
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