第44話

 私が中学に上がる頃、お母さん達はすっかり私の事を『諦めて』いた。

 私を誰かに自慢しようとか、理想の娘に育てようとか、そういう事を諦めていたのだ。

 見捨てられたと表現しても良いかもしれない。


 あれから私は公立の中学に進学する事になり、お母さんはテレビも漫画も自由に楽しませてくれるようになったし、勉強についても何も言わなくなった。

 私の相手をしなくても済むようになのか、多めにお小遣いをくれたり、ゲーム機を買い与えてくれたりもした。


 ただ時々、「お願いだから普通でいてくれ」と懇願される事はあった。

 お母さんの口にする『普通』が何かわからなかったけれど、私は私がイメージする通りに普通の子供でいるように務めた。

 自分との対話も、人がいる場所ではできるだけ避けるようにした。


 グレる程の反骨精神は、とうの昔にお母さん達によってゴリゴリに削り取られていた。それこそ骨を大根おろし機で削り取られるような心の痛みと共に。


 弟の陸は三歳になり、私はお母さんが『自慢の子供二号機』を作るために、スパルタ教育を始めるのではないかと思っていたが、そんな事はなかった。


 時折ヒステリーを起こす事はあったけれど、基本的には優しく、習い事も陸が続けたいというものだけをやらせ、アニメや漫画も好きに読ませ、近所の子供達とも自由に遊ばせていた。

 お父さんも、お酒を飲みながらテレビを見る事が少なくなり、よく公園で陸と遊ぶようになった。

 そして、仲が悪かったお父さんとお母さんは、徐々に仲良くなっていった。


 私はそんな両親に対して不公平だと思った。

 でも、陸が私と同じ目に遭わなくて良かったという気持ちもあった。


 ただ、私という『失敗作』を作り出しておきながら、謝罪の一つもなく『いい親』になろうとしている事は許せなかった。


 もしかしたらまた『悪い親』に戻るかもしれないと思って、二年くらいは我慢したけれど、私が中学三年に上り、陸が幼稚園に入園した年、「陸は公立でのびのび育てましょう」というお母さんの言葉を食卓で聞いて、私はついに我慢の限界を迎えた。


「ねぇ、どうして陸には優しいの?」

 私の言葉に食卓が凍り付く。

 お母さんがお父さんを見ると、お父さんは目を逸らし、焼酎で満たされたグラスと共に食卓を離れて、ソファーでテレビを見始める。


「何言ってるの、まるであなたには優しくないみたいに……。お小遣いだってちゃんとあげてるでしょう?」

 そう言って椅子から立ち上がり、皿を下げようとするお母さんの手を私は掴んだ。


「逃げないで……。私から逃げないでよ」

「なんで私があなたから逃げるのよ。あなたには小さい頃から習い事も沢山させてあげたし、私立に行きたいって言うから行かせてあげたじゃないの」

 その言葉に、私の怒りのスイッチが入った。


「違う! 私は習い事なんかしたくなかった! 私立になんかに行きたくなかった! ただ……ただ普通に友達と遊んだり、普通にお母さん達に甘えたりしたかった!」

 食卓に座る陸は不思議そうに首を傾げて私を見ている。


「そんな事今更言っても仕方ないでしょう。自分が私立の勉強についていけなかったからって私達のせいにしないでちょうだい」

「違う! そんな話してない!」

「……じゃあ、何が言いたいの?」

 その時お母さんは、怒った顔も後ろめたい顔もしていなかった。

 ただ、訪問販売に来た人の話を聞く時のような、面倒くさそうな顔をしていた。


「謝って……! 謝ってよ! 定規が折れるまで私を叩いた事、私を脅して優越感に浸っていた事、逃げる私にゴキブリを押し付けようとした事、全部謝ってよ!!!!」

「何よ大きな声出して。親に向かってなんて言い方するの。ビックリするわよねー、陸ちゃん」

 お母さんは茶化すようにそう言って、陸を見る。


「親だからとかそんなの関係ない! 人が悪い事をしたら謝るのが普通でしょう!? 白石君の時は私の話も聞かずに土下座させたくせに!」

「あれはあんたが悪いんでしょう。白石病院の息子さんに手をあげるなんてとんでもない事して。そうそう、白石先生といえば今度市議会選に立候補するって……」

「そんな事今は関係ないでしょう!? 謝ってよ!」

 お母さんは眉を顰め、またお父さんの方を見るが、お父さんは相変わらずお酒を飲みながらテレビを見つめている。


 お母さんは仕方なさそうに私に視線を戻し、言った。


「あんた、頭おかしいんじゃない?」


 心臓を砲丸で撃ち抜かれたような衝撃が奔った。

 全身から血の気が引き、私はお母さんの手から手を放し、その場に崩れ落ちそうになる。


「……本気で言ってるの?」

「おかしな子、また病院に連れて行かなくちゃ。あーあ、またお金が掛かるわ」


 そう言ってお母さんはキッチンへと去ってゆく。

 発狂しそうな虚無感の中で、私は叫び出すのを堪えるのに必死だった。


 心がこもっていなくてもいい。

 ただ一言謝って謝って欲しかっただけなのに……。

 いや、謝らなくてもいい。

 逆ギレでもいいから、せめて私にした事を認めて欲しかった。

『私はこう思ったからこうしたのだ』と、せめて感情をぶつけて欲しかった。

 しかしお母さんは、私にした事そのものをなかった事にしようとしているのだ。


 このままでは私の心が壊れてしまう。

 そう思った私は、縋り付くようにお父さんの背中に声を掛ける。


「お父さん、覚えてるよね……? 私の頭を缶のペンケースで叩いた事覚えてるよね? お母さんから怒鳴られるのがイヤで、私を生贄にしていた事覚えてるよね?」

 するとお父さんはこちらを振り向きもせず、

「うるさい。テレビが聞こえないだろう」

 と言った。


 私はもう、自分の中に渦巻いている感情が怒りなのか、悲しみなのか、恨みなのかわからなかった。

 ただ果てしない虚無感が私を絶望の淵に引き摺り込もうとしていた。


 テレビを見るお父さんの背中を見ていると、思わず殴りかかってしまいそうな衝動に襲われ、私は決して口にしまいと思っていた事を口にした。


「私の着替えを見にくるくせに……」

 私の言葉にお父さんは瞬時にこちらを振り向く。


「何!?」

 その顔は真っ赤に染まっているが、恐らくアルコールのせいだけではないだろう。


「私の裸を見るために、私が脱衣所にいる時にわざと歯磨きしにくるくせに!!」


 それは、私が小学校高学年の頃からだった。

 お風呂に入ろうと私が脱衣所兼洗面所で服を脱ぎ始めると、なぜか毎晩のようにお父さんが現れて、歯磨きをするようになったのだ。

 私は初めはその理由に気付かなかったが、ある日鏡越しに私の姿を見ているお父さんの視線に気付いた時、その理由を察して身の毛がよだつ思いをした。


 私の家の脱衣所には鍵がついておらず、私はお父さんに「着替え中に脱衣所に来るのはやめて」と言ったのだが、お父さんは、「ここは俺の家だ。俺が何しようと勝手だろう」と言って取りあってくれなかった。


「何だと貴様!! 親に向かってなんて事言うんだ!? 誰がお前の裸など見たがるものか!」

「私は気付いてたんだよ! 小学生の頃からお父さんが私の体をジロジロ見ていたのも、私がいない時にこっそり部屋に入っているのも、寝ている時に体を触ってたのも、全部気付いてたんだよ!」


 これまで私は家庭が崩壊する事が怖くて、そして思い出す事も気持ちが悪くて、それを口する事ができなかったが、今日は言わずにはいられなかった。


 顔を真っ赤にしたお父さんはソファーから勢いよく立ち上がり、テレビのリモコンを握り締めて私の前に立つ。

 そしてお父さんがリモコンを振り上げたところで私は言った。


「……殴ってよ」

「……何?」

 リモコンを振り下ろそうとしていたお父さんの手がピタリと止まる。


「そんな物で叩くくらいなら、素手で思いっきり顔面を殴ってよ!」

「な、何言ってるんだ!?」

「自分が本当に正しいと思っているなら素手で殴れるでしょう!? 拳の痛みにも胸の痛みにも耐えられるでしょう!? 私が殴られた痕を誰かに見られても『俺は娘を正しく導くために殴ったんだ』って言えるでしょう!?」


 その時私は本当に殴って欲しいと思っていた。

 別に児童相談所に駆け込もうなどと考えていたわけではない。

 私を苦しめてきた人間が、せめて自分の罪くらいは背負える人間だとだと信じたかったのだ。


 しかし、お父さんは私を殴らなかった。

 お父さんはリモコンを握った手を下ろし、「全く、誰に似たんだか……」と言って、ソファーへと戻っていった。

 台所から戻ってきたお母さんも、何も聞こえなかったフリをしていた。


 なんて矮小な人達なんだろう。


 虚無と絶望の中で、私は食卓に置かれていたフォークを手に取ると、椅子に座っていた陸の頭上でそれを振り上げた。


「陸、いい物あげるから目を閉じて」

 陸は私の言葉に従い、大人しく目を閉じる。


「鳴海!? 何やってるの!?」

 背後でお母さんの声が聞こえ、ソファーに座っていたお父さんもこちらを振り向く。そして瞬時に青ざめた。


「あなた達の大切な物、壊すね」

 そう言って私は陸の頭にフォークを振り下ろ————


 さなかった。


 私はただフォークを振り下ろすフリをして、陸の頭を撫でたのだ。

 お母さんは腰を抜かしてその場に尻餅をついており、お父さんはソファーから立ち上がりもしていなかった。


「……庇おうともしないんだね」

 お母さんもお父さんも、何も言わずにただ青ざめた顔で私を見ている。


「お願い、陸だけはちゃんと育ててあげて」


 私はそう言って、二階にある自室へと戻った。

 大きな虚無感と絶望を抱えたまま。

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