第43話

 お母さんとお父さんは弟に『陸』という名前を付けた。

 私が海で弟が陸とは何の捻りもない名前だ。

 だからといってどんな名前が良いかなんて考えもしなかったけれど。


 陸に対しては、別に『かわいい』とか『大切にしなくちゃ』とかは思わなかった。

 でも、陸が生まれたおかげで、お母さんからの折檻が減った事には感謝している。

 お母さんは陸の世話が忙しくて、私に構っている暇がなくなったのだ。もしかしたら内心ではお医者さんに言われた事がショックだったというのもあるかもしれない。


 そして、お母さんの折檻が減ったおかげなのか、皮肉な事に私の成績は徐々に上がり始め、一人だけ友達もできた。


 友達の名前は『みーちゃん』。

 本名は相良美智子だったけれど、私はみーちゃんと呼んでいた。


 みーちゃんは読書が好きで、頭が良くて優しい子だったけれど、気が弱くてクラスの男子達からいじめられていた。

 殴られたりはしていなかったけれど、物を隠されたり、悪口を言われたりして、みーちゃんはよく泣いていた。


 みーちゃんをいじめていたのは、白石君という県内でも一番大きな病院の息子とその仲間達で、白石君のお父さんは学校に多額の寄付をしており、先生達も白石君を強く注意したりする事はできなかった。


 だから、ある日私は白石君を叩いた。

 みーちゃんの机に卑猥な言葉を書き殴っていた白石君の顔面を、平手で何度も叩いた。

 白石君が泣いて謝るまで。


 その翌日、私は両親と一緒に校長室に呼び出された。

 校長室には白石君とその両親が来ており、お父さんとお母さんは白石君達に土下座をし、何度も何度も謝っていた。

 私も一緒に土下座をさせられ、私の話を聞いてくれる人は誰もいなかった。


 その場にいた大人達は私に、何があっても暴力だけは絶対にいけないと言ったが、それではみーちゃんは誰が助けてくれたというのだろうか。

 先生達が止めないのに、誰が白石君達を止めてくれたというのだろうか。


 家に帰る途中、お母さんは車の中でずっと泣いていた。

「あれだけ尽くしたのに、どうしてこんな子に育ってしまったのだろう」と。


 そんなお母さんに対してお父さんは、

「陸はちゃんとした子に育てよう」

 と言った。


 白石君を叩いた事に対する罪悪感や後悔はなかった。

 人は人が思っている以上に野蛮で原始的な生き物であり、最も簡単に自分の意思通りに動かすには、暴力が一番手っ取り早くて正確である事は、お母さん達から学んでいた。

 私はちゃんと、お母さんが育てた通りに育ったのだ。


 それからしばらくして、みーちゃんは別れも告げずに学校を転校していった。

 最初から一人ぼっちだった時は寂しくなかった。

 でも、一度得たものを失うのは、胸が潰れる程に苦しく、悲しかった。

 そして何より、みーちゃんを守る事ができなかった自分が情けなかった。


 みーちゃんがいなくなった事で、白石君の標的は私に変わった。

 白石君が私に怯えているのは目を見ればわかったけれど、白石君は私が手を出せないのを知っているので、容赦なくいじめてくれた。

 檻の中のライオンを槍でいたぶるかのように。

 私に対する敗北感を拭うかのように。

 彼が将来父親の病院を継いで、多くの人の命を預かるのかと思うと私はゾッとした。


 私はお母さんに学校に行きたくないと言ったが、「どれだけ授業料を払っていると思ってるの!? 死んでも行きなさい!」と言われ、風邪の日だろうと容赦なく学校に送り出された。

 学校を辞めたいという希望も、当然ながら却下された。


 お母さんにとって大切なのは私ではなく、『私立の小学校に通う、周囲に自慢できる娘』だったのだ。


 確かその頃だっただろうか、私に一つの才能が芽生えたのは。


 学校にいても家にいても苦痛しか感じなかった私は、感情を消して『無』になるという遊びを始めた。

 あらゆる事に感情を持ち込まず、ただ機械のように淡々と日常を過ごすようにしたのだ。


 それをしばらく続けていると、徐々に感覚が鈍化していき、嫌いな食べ物が食べられるようになった。

 それまで嫌いだったナスもピーマンも、ただ体内に流し込まれるだけの存在になり、躊躇なく口にできるようになった。


 やがて苦痛を感じなくなり、白石君達のイジメに対しても何も思わなくなった。

 そして、まるで斜め上空から自分を見ているかのように、自分の事を俯瞰から見る事ができるようになった。

 感覚としては、テレビゲームをしているときに自分の操作するキャラクターを自動で追っているような感覚だ。


『自分』というキャラクターがダメージを受けても、『私』は何も感じなくなり、私は無敵になったのだ。


 更にその感覚に慣れてくると、今度は『自分』が『私』に話しかけてくるようになった。

 それから私は自分と話をするようになった。

 例え自分自身が相手でも、他者と話す事は楽しくて、私は自分と沢山お喋りをするようになった。


 側から見ていると一人でぶつぶつと会話をするようになった私をお母さん達は不審に思い、病院に連れて行った。


 私は『精神分裂症』だと診断された。

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