第42話

 私が幼稚園に入ってしばらく経った頃、お母さんは私にこんな事を言った。


「ねぇ、幼稚園のミキちゃんがね、私立の小学校を受験するんだって。あなたも受験しましょう」と。

 当時の私にとってシリツが何か、ジュケンが何か分からなかったけれど、その時のお母さんの言い方が断れば怒るパターンだとわかったので、私はとりあえず頷いた。

 すぐに後悔する事になると知らずに……。


 それからお母さんは私に更に勉強をさせるようになった。

 習い事も学習塾を掛け持ちする事になり、唯一好きな習い事だった水泳も辞めさせられた。


「もう勉強が嫌だ」

 という私に対し、お母さんは

「あんたが受験したいって言ったんでしょう!? あんたにどれだけお金が掛かっているかわかってるの!? 勉強しないなら返しなさい! 今まで使ったお金も、今着ている服も、食べたご飯も全部返しなさい! 橋の下に捨ててやるから!」

 と言って、例の竹の定規で私を叩いた。

 お母さんは私を叩くのが上手で、アザができないように、でもちゃんと痛いように、骨がある場所を狙って器用に叩くのだ。


 私はこんな辛い思いをして行かなきゃいけないシリツの学校とはきっと地獄のような場所なのだろうと思い、とても恐ろしかった。


 それからしばらくして、私は私立の小学校を受験し、学力テストの方は無事に合格した。

 そして、二次試験である面接の時だった。

 面接官のおじさんが私に「あなたはなぜこの小学校に入りたいのですか?」と聞いてきた。

 その質問の受け答えも、私はお母さんにみっちり仕込まれていた。


 しかし、いざ答えようとした時、私の口からは言葉が出てこずに、代わりに目から涙がポロポロとこぼれ落ちてきた。

 焦ったお母さん達は私を泣き止ませようとしたが、私の口から出てきた言葉は

「嫌だ! こんな所入りたくない!」

 だった。


 面接が終わってから家に帰る途中、車の中では皆無言だった。

 そして家に帰り着くと、お父さんはいつものようにお酒を飲みながらテレビを見始め、お母さんは泣きながら人間の声とは思えない怪獣のような声で私を怒鳴り散らし、プラスチック製のハエ叩き叩きが折れるまで私を叩いた。


 その数日後、私の家に届いたのは、小学校からの合格通知だった。


 私は嫌だったけれど、お母さんは「鳴海が自分の意見をちゃんと持っている子だって評価されたのね」と、嬉しそうにしていた。


 それから私は毎日片道二時間かけて電車とバスを乗り継ぎ、受験した私立の小学校に通うようになった。

 朝五時に起きて学校に行くのは辛かったけれど、学校にいる間はお母さんに叩かれる事がないから、頑張って通った。


 でも、毎朝早起きをするせいか、私は授業中によく居眠りをしてしまい、先生に怒られる事が多かった。

 毎日のように居眠りをして先生に怒られる私はクラスでも浮いた存在で、友達が中々できなかった。

 クラスメイト達も「不真面目な子と仲良くしてはいけません」と親に言われているらしく、休み時間も私とは遊んでくれなかった。


 私は勉強にもすぐについていけなくなり、先生から「このままではいけませんな」と言われたお母さんは、私に夜遅くまで勉強をさせるようになった。そうすると睡眠時間は更に削られ、私の居眠りはもっと酷くなり、ますます勉強についてゆけなくなった。

 その頃の私のあだ名は『ウラグチニュウガク』で、今思えば子供ながらに中々センスのあるあだ名をつけてくれたものである。


 そんな私をお母さんは————。

 まぁ、もう語らずとも大体は察しがつくだろう。

 その頃の私の家では、竹の定規やハエ叩きを頻繁に買い換える必要があったというだけの話だ。


 小学三年生に上がる頃だった。

 私には学習障害があるのではないかと、個人面談で先生に言われた。私の成績はそれ程に酷かったのだ。

 それを聞いたお母さんは、私を病院に連れて行ってくれた。

 その時の事はよく覚えている。


 病院で色々と検査を受けた後、お医者さんは私とお母さんに脳味噌の白黒写真を見せながら、

「鳴海さんには過度のストレスによる脳の萎縮が見られます。特に学習に関する事に強い拒絶反応を示していますが、何か心当たりはありませんか?」

 と言った。

 その時私は「やった」と思った。

 これでお母さんが自分の行いを顧みてくれると思ったのだ。


 しかし、お医者さんの言葉を聞いたお母さんの反応は、ポカンとした表情を浮かべて、

「さぁ……。よっぽど勉強が嫌いなんですかねぇ? この子には色々してあげてるんですけど……」

 だった。

 その表情は罪悪感から逃れるための演技だとはとても思えず、その瞬間から私の目は、お母さんを壊れたロボットのように映すようになった。


 その次の年、私が十歳になった頃、私には年の離れた弟ができた。

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