真実

第41話

 私の名前は雨宮鳴海。

 十五年と少し前に、専業主婦のお母さんと、観光関係の仕事をしているお父さんとの間に生まれた。


 生まれたといっても、生まれたばかりの時の記憶はもちろん無い。

 私の中にある最も古い記憶は三歳くらいの頃、青空の下でお母さんと手を繋ぎ、花畑を散歩している光景だと思う。


 幼い頃の私の記憶は、主にお母さんとの思い出で彩られている。


 お母さんは教育熱心な人で、私は幼稚園に入る前から学習塾やピアノ等、様々な習い事に通わされていた。

 あの頃は一週間の内に習い事が無い日はなかったのではないだろうか。


 私は遊ぶ時は、いつもお母さんが買い与えてくれた知育パズルや計算ゲームをして遊んでいて、それらで遊ぶ私を見てお母さんは、「鳴海はお勉強が好きなんだね」と言ってニコニコしていた。

 本当は着せ替え人形とか変身セットとか、もっと他の子供達が遊んでいるような流行り物のオモチャで遊びたかったけれど、それをお母さんに言うと怒られるので言えなかった。

 クリスマスのプレゼントも、いつも文房具や辞書等の勉強道具で、私は幼稚園に上がる前にはサンタクロースが存在しない事を理解していた。


 それから、流行りのアニメや漫画等は「バカになるから見てはいけない」と言われていて、テレビを見る時は教育テレビ、本を読む時は絵本か歴史漫画しか許されなかった。


 当時の私は習い事だけでなく、自宅での勉強も日課だった。

 私が勉強机で勉強している間、お母さんは長い竹の定規を持って常に背後から見張っており、よそ見をしたり問題を間違えたりすると、私の手を定規で強く打った。

 そして時にはヒステリックに怒鳴り、私を押し入れに閉じ込めたりもした。

 私はそんなお母さんが怖かったけれど、怯えている様子を見せるとお母さんは『あんたのためを思ってやっているのに!』と、更にヒステリックになるので、私は常に明るく振る舞うように努力をしていた。


 お母さんのヒステリーは勉強の時だけではなかった。

 食事の時に嫌いな物を残そうとしたり、外で遊んでいて服を汚したりすると、狂犬のように発狂して私を怒鳴り散らした。

 当時の私にとって、お母さんは赤ずきんちゃんに出てくる狼よりも恐ろしい存在だった。


 でも、お母さんはいつもヒステリーだったわけではない。

 外で誰かに会う時や、家にお客さんが来ている時は、私が何か失敗をしても笑って許してくれたし、親戚の集まりの時には「この子は勉強が好きなんですよ、きっとお医者さんか弁護士になるわ」と言って自慢してくれていた。

 私は別にそんなものになりたいわけではなかったけれど、お母さんに恥をかかせたら後が怖いので、何も言えなかった。


 お母さんのヒステリーはいつ何をスイッチに発動するかわからないので、私は常に『大人が思い描く良い子供』を演じ、お母さんの顔色を伺っていた。

 お母さんはよく本を読み聞かせてくれたり、クラシックのコンサートに連れて行ってくれたりもしたけれど、私がつまらなそうにしていると「可愛げがない」と言って、やっぱりヒステリーを起こすので、私は常に楽しいフリをしていなければならなかった。


 それから、お母さんは車を運転している時に急にスピードを上げ、「このまま壁に突っ込むから、お母さんと一緒に死のうか」と言う時があった。

 幼かった私はそれが怖くて、いつも泣いてやめるように懇願していたのだが、そうするとお母さんは満足そうな表情を浮かべていたのを覚えている。


 お母さんの口癖は「あなたのためにやっているのよ」と、「あなたは他所の子達とは違うの」で、私はあまり他の子達と遊ばせて貰えなかった。

 他にも、一緒に街を歩いている時に、コンビニの店員さんや土木工事の人を見かけると、「あんな仕事につきたくなければもっと勉強しなさい」ともよく言っていた。


 当時の私の気が休まる時は、お母さんがお風呂に入っている時と、一人で留守番をしている時くらいだったかもしれない。


 お父さんは仕事が忙しくて、あまり家にいなかった。

 出張とかで、二週間くらい家に帰ってこない事もしょっちゅうだったと思う。

 家にいる時は、ほとんどソファーでお酒を飲みながら、ジーッとテレビを見ていた。喋りもせず、たまに乾いた笑い声を出し、テレビに吸い込まれていくかのように、ただジーッとだ。私はその様子が怖くて、あまり話しかけたりする事ができなかった。


 でも、あんまり話しかけないでいると「父親に対する態度がなっていない。教育が悪いんだ」と言って、お母さんと喧嘩を始めるので、私はお父さんの機嫌が良さそうなタイミングを見計らって、頑張って話しかけるようにしていた。

 お父さんは私によくチューをしてきたけれど、それが気持ち悪くて、とても嫌だったのを覚えている。


 お父さんはお母さんといつも喧嘩をしていたけれど、私がお母さんのヒステリーから逃れるために助けを求めても、助けてくれた事はなかった。

 多分お父さんは私の事を、お母さんのヒステリーの矛先となる生贄のように考えていたのだろう。


 お父さんはたまに私をお出かけに連れて行ってくれる事もあった。でも、私が何か気に食わない事をすると急に怒りだし、私を叩く事があった。


 例えば、文房具を買いに行った時だ。

 私は青色の筆箱が欲しいと言ったのだが、お父さんは「青は女の子らしくないから、ピンクのやつにしなさい」と言った。

 それでも私が青が良いと言うと、お父さんは突然私の頭を、近くに置いてあった缶のペンケースの角で打ちつけた。

 そして泣き喚く私を置き去りにして、どこかに行ってしまった。


 それからレストランに食事に行った時に、私がハンバーグが食べたいと言うと、お父さんは「こっちの方がかわいいからお子様ランチを食べなさい」と言った。

 それでも私がハンバーグがいいと言うと、お父さんはメニューで私の顔を叩いて、またどこかに行ってしまった。


 私はお母さんとお父さんにはよく叩かれたけど、二人は私を素手で叩いた事は一度もない。

 当時は私が汚いと思われているのかと思っていたけれど、今思えばただ自分の手で子供を叩くというのが怖かったんだと思う。


 お母さんとお父さんは基本的にあまり会話をしなかったけれど、たまに仲良くなる時があった。

 それは、私をからかう時だ。


 当時の私は虫が苦手で、家にゴキブリや蜘蛛が出ると泣いて逃げるほどの弱虫だった。

 ある日、家にゴキブリが出た時、私はお母さんにそれを退治するように頼んだ。

 お母さんはすぐにゴキブリを退治してくれたのだけれど、そこからが問題だった。


 お母さんはゴキブリの死体をティッシュでつまみ、「こんなものが怖いの? ねぇ? ほら、死んでるよ」と言って、私を追いかけてきたのだ。

 私がお父さんに助けを求めると、お父さんは「なんだ、こんな事で情けない」と言って、私を押さえつけた。

 そして二人は私にゴキブリの死体を間近で観察させた。


 その時私が本当に怖かったのはゴキブリの死体よりも、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら、泣きじゃくる私を見るお母さんとお父さんの顔だった。


 歪な家庭ではあったけれど、当時の私にとってはほぼ家の中だけが自分の世界であり、お母さんとお父さんだけが、私のそばにいてくれる人だった。だから私は、二人がやる事が当たり前であり、それを嫌がったり怖がったりする自分がおかしいのだと思っていた。


 それが、私の幼年期の記憶だ。

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