第6話
ヤバい。
そう思った次の瞬間、バランスを崩した私の体は落下を始め、一秒も経たぬうちに屋上の床に肩から叩きつけられ————なかった。
いや、屋上の床に落ちたのは確かであるが、落ちた時の衝撃がほぼ感じられなかったのだ。
床に触れる瞬間に感じたのは、誰かに受け止めてもらえたかのような、軽く柔らかな感覚だった。
起き上がり、自分の手足を見つめる。
どこにも怪我はしていないし、痛みもない。
貯水タンクを見上げると、屋上の床からは平家一軒程度の高さがある。これほどの高さから落ちて無傷どころかほぼ衝撃も無いだなんて事がありえるだろうか。
立ち上がって、足裏で床を強く踏みつけてみる。
コンクリート製の床はやはり固く、足を振り下ろすたびにダンダンと靴底が鳴る。
今のような現象がなぜ起こったのか理解はできなかったが、どうしても気になって仕方がない私は、床を更に強く踏みつけるために飛び跳ねようと、両足で床を蹴った。
すると————
耳元で風が鳴り、視界が激しく縦に動いた。
そして気がつくと、私はマンションの屋上を、いや、マンションが建っている島全体を遥か上空から見下ろしていた。
「あ……えぇ!?」
突然の出来事に理解が追いつかない私は、スカートを押さえる暇もなく、重力に引かれて足下から落下し始めた。
フリーフォールに乗った時のような内臓が押し上げられる感覚が私を襲う。
本来であれば間違いなく死ぬ高さからの落下。
正直怖かった。
しかし、不思議と危機感はなかった。
私は謎の確信を持って、迫りくる屋上の床を見つめながら、跳び箱の上から飛び降りたくらいの気持ちで着地する。
やはり落下の衝撃は無かった。
ただ軽く跳ねてから着地した時のような、足裏が床に触れた感触と、膝が自重を支えた感覚だけがあった。
今、何が起こったのだろう。
ドキドキと、心臓が激しく高なっている。
理解が追いつかずに、自分自身が大きく興奮していると気付くまで数秒の時間が必要だった。
命の危機を回避した興奮。
不可解な現象に直面した興奮。
そして、自分が『跳んだ』という事実に対する興奮が、私の中で渦巻いていた。
空を飛ぶ夢を見て、その記憶を残したまま目を覚ます事がある。すると、目を覚ましても体には空を飛んでいた時の感覚が残っていて、なんだか自分が本当に飛べるかのような不思議な気持ちになる。私は徐々に薄れゆくその感覚を、起きる時間が来るまでベッドの中で何度も反芻するのが好きだった。
今私は、正確に言えば空を飛んだわけではない。
あれは飛行ではなく跳躍だった。
しかし、現実として体感したその感覚は夢の中での飛行よりも遥かに強く残っており、私の中でいつまでも消えない。
渦巻く興奮と混乱と共に、私の心は激しく踊っていた。
私は先程の感覚がまだ残っているうちに、今起こった事が現実かどうかを確かめるために、身を屈めて足に力を込める。
今度はさっきよりも強く。
さっきよりも高く跳べるように。
空を見上げながら垂直跳びの要領で床を蹴った瞬間、先程と同じように風切り音と共に私の体は弾かれたように上昇した。
風圧で上を見ていられずに視線を下げると、屋上の床がみるみるうちに遠ざかってゆく。
やがて上昇が止まり、私は前を見る。
私の視界には、ただただ果てしなく青く美しい世界が広がっていた。
信じられない。
今、私は確かに自分の意思で跳んだ。
なぜ自分はこんな事ができるのだろうか。
このジャンプ力は、島が浮いているこの不思議空間の影響なのか、それとも私が内なる超能力に目覚めたのか、重力がなんたらかんたらなのか。
疑問符が脳内で跳ね回る。
色々、色々、とにかく色々な疑問が頭に浮かんだ。
しかし、それらは全て今の私にとってあまり重要な事ではなかった。
頂点に達してから落下が始まるまでの一瞬の無重力の中で、私はこれまで体験した何にも代え難い楽しさと、果てしない開放感を感じていたからだ。
先程まで私の中にあった精神的な疲労と不安は、風と共に水平線の彼方へと消えてゆく。
この場所がどのような存在で、私はここで何をするべきなのか、それは相変わらずわからない。
でも、この世界で私に何ができるのかは一つだけわかった。
私は跳べるんだ。
それだけで、なんだかこの不思議な世界から受け入れられたような気がした。
その後、無事マンションの屋上への着地を果たした私は、トランポリンで遊ぶ子供のように、何度も何度も跳躍と着地を繰り返した。
月面のウサギが呆れてしまうだろうほどに。
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