第7話

 高跳びと幅跳びと……あとジャンプを必要とするあらゆるスポーツの世界チャンピオンに人知れずなってしまっていた私は、一頻り跳ねた後でこれからどうするかを考えた結果、もう完全に開き直り、この世界から脱出するまではこのマンションのどこか一室を根城とする事に決めた。


 もしその部屋に住人がいて、帰ってきた住人に怒られたら謝ればいい。見知らぬ土地で野宿をするよりかは、その方がまだましだ。そしてもし住人が怪物だったら……あのジャンプで逃げればいい。


 それに、私の滞在中に住人が帰ってくるとも限らない。

 トイレを借りた時から思っていたのだが、島が空に浮いていて、私のような普通の人間がビルよりも高く跳べるこの摩訶不思議な世界では、人が住んでいる痕跡がありながら誰も住んでいないマンションが存在していてもおかしくない。多分大丈夫だ……多分。


 そんな空き巣みたいな事をしなくても、せっかく跳躍能力に目覚めたのだから、島を渡り歩いて人がいる場所を探そうかとも思ったけれど、よくわからないこの世界で夜に活動するのは少し怖いし、探したところで人が見つかるとも限らない。

 だから取り敢えず、今日は拠点の確保を優先する。


 夕暮れが迫ってきていたので、私はマンション内へと戻った。

 薄暗くなったマンション内にはいつの間にか屋内灯が灯っている。


 どうせ部屋を借りるなら景色の良い最上階が良いだろうか。それとも何かあった時にすぐに逃げ出せる一階が良いだろうか。


 少しだけ悩んだが、結局私は最上階を選んだ。

 だって、いざ何かあったらあのジャンプで窓から逃げれば良いのだから、一階も最上階も関係無い。それならば景色が良い最上階の方が得だというわけだ。


 私は最上階である十階にある部屋を片っ端から見て周り、拠点とする部屋を探す。

 なんだか一人暮らしをするための部屋を探すようで、少しワクワクした。

 インテリアや窓からの眺めも大事だけど、帰ってきた時に見知らぬ女子高生が部屋でくつろいでいても怒らなそうな人が住んでいそうな部屋が理想的だ。


 全ての部屋を見終わった私は、今夜だけか、あるいは当面世話になるかもしれない部屋を決めた。


 119号室。

 そこは最上階の角に位置する部屋であり、先程トイレを借りた一階の部屋と同じように女性が一人で暮らしていた痕跡がある部屋である。

 さっきの部屋と違うのは、全体的に物が少なく、インテリアが少しレトロ風であるという事、そして角部屋なので寝室にベランダだけでなく窓があるという事だ。


 この部屋を選んだ理由は、私がレトロ風のインテリアが好きだからというわけではない。寝室に置かれていた本棚に前から読みたいとは思ってはいたけれど、まだ読んでいなかった漫画が全巻並んでいたからだ。

 それから、寝室の壁を半面埋めている大きな本棚には、他にも漫画と文庫本がギッシリと詰まっていた。つまり、この部屋の住人は多分オタク系の人である。いや、部屋の隅にベースが置かれているところを見ると、サブカル系の人だろうか。

 なんとなくだけど、そういう人は部屋に見知らぬ女子校生がいてもあんまり怒らないような気がする。まぁ、これは完全に私の偏見だ。


 部屋を決め終えた時には太陽は既に西の空に完全に沈みかけており、窓から見える景色はすっかり茜色に染まっていた。

 まぁ、この世界において日が沈む方角が本当に西であるとは限らないが。


「おじゃまします……」

 と言って部屋に上がり込んだ私は、本当に誰もいないかもう一度部屋の中をよく見て周り、それからダイニングの奥にある寝室のベッドに腰掛けて一息付く。そして窓から見える海に夕陽が溶けてゆく光景をしばらく眺め続けた。

 すると、夕闇の中にポツポツと明かりが灯り始めるのが見えた。多分あれは他の島に見えた建物や街灯の明かりだろう。少し身を乗り出して真下を見ると、この島の街灯にも明かりが灯っている。

 あの無数の灯りの下に、私を元の世界に返してくれる人はいるのだろうか。それとも————


 室内がすっかり薄闇に包まれてから部屋の明かりをつけると、私は自分が空腹である事に気付いた。

 寝室の壁掛け時計が示す時刻は十九時前、夕飯にはちょうど良い時刻だ。

 次に私が取る行動はすぐに決まった。


 相変わらず気は引けるけど、最早今更である。

 私はよく整頓されたキッチンにある冷蔵庫の中から、食パンとチーズとハム、ついでに牛乳を頂戴し、サンドイッチを作って朝食のような夕飯を済ませた。

 不法侵入に加えて無銭飲食、いや、窃盗だろうか。

 元いた世界なら、私はこれで前科持ちだ。


 食べ終えてから気付いたのだが、食材の賞味期限を確認すると、日付は全て今日までのものだった。先程トイレを借りた部屋で見た食材の賞味期限も、確か今日までのものばかりだった気がする。こんな偶然があるだろうか。

 まぁ、この世界では偶然とか常識とかあまり関係ないだろうし、どうせ今の段階では何もわからないのだから、気にしても仕方ない。明日になったらもっと色々な事を調べてみよう。


 使った皿を片付けながら、私は一つ悩んだ。

 私は今日目を覚ましてからずっと歩き回っており、更に先程は馬鹿みたいに飛び跳ねたおかげで、少し汗をかいた。

 となると、浴びたくなるのはシャワーだ。


 食べ物まで食べておいてなんだが、やはり他人の家のシャワーを勝手に使うのは気が引ける。しかも、当然ながら私は着替えを持っていない。となると、シャワーだけでなく着替えも借りねばならない。どうするべきだろうか……。


 悩んだのはほんの数秒であった。

 開き直りモードの私は寝室に置かれたカラーボックスの引き出しを漁り、新品らしき下着と寝巻きになりそうな服を適当に引っ張り出す。

 風呂場をチェックすると、シャンプー類もちゃんと揃っていた。

 これはもう天啓だ。

 天啓だという事にしよう。


 結局、私は他人の家の風呂場で勝手にシャワーを浴び、他人のタオルと着替えを勝手に借りて、他人の洗面所の引き出しに入っていた新品の歯ブラシを勝手に開けて勝手に使った。

 加速してゆく自分の図々しさと反対に、徐々に罪悪感が小さくなってゆくのが少し悲しい。この空間に来てから私のモラルは水につけた砂糖菓子のように溶けてゆくようだ。

 でも、風呂上がりに冷凍庫のアイスに手を出すのはやめておいた。多分それが私の最後の良心だ。


 さっぱりとした私はドライヤーで髪を乾かした後で、少しだけマンション内の様子を見て回った。

 マンション内から人の声や生活音は聞こえず、やはりこのマンションは無人なのかもしれない事を再認識する。


 それから119号室に戻り、ベッドの上で漫画を数冊読んだ。

 一冊目はお行儀良く座って読んだけど、二冊目からはベッドにゴロンと寝転がって読んだ。

 しばらくすると徐々に眠気が押し寄せてきて、私は漫画を枕元に置いた。


 ベッドに仰向けになって天井を見ていると、急激にまぶたが重たくなってくる。

 このまま寝てしまってもいいのだろうか。

 見知らぬ世界で、見知らぬ人の部屋で、こんなにも穏やかな気分で寝てもいいのだろうか。

 多分良くはないだろう。

 本当ならばちゃんと危機感を持って、どこかに隠れて少しだけ眠るのが正しいのだろう。


 でも、いいや。

 肩まで被った黄緑色の薄手の毛布は、この部屋の本来の住人の残り香なのか、ほんのりとラベンダーの香りがした。

 探索とジャンプを繰り返した事による疲れが、心地良い眠りへと私を誘ってゆく。


 もしかすれば次に目が覚めたら元の世界に戻っているかもしれない。もしそうなら、もう少しだけこの世界にいてもよかったな。

 そんな事を思いながら、私は目を閉じて眠りの中へと落ちていった。

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