第50話
再び目を開けると、そこにはもう一人の私の顔があった。
「————そういう事なんだよ。だからそこにいる鈴木君は、あなたの好きだった鈴木君じゃないの。あなたが自分のためだけに作ったニセモノなんだよ。だから、元の世界に戻ったところで、あなたは彼と結ばれる事なんてないの」
鈴木君の方を見ると、鈴木君は悲しげな表情で私の事を見下ろしていた。
私は手を伸ばし、鈴木君の手に触れる。
「嘘だよね? だって、ここにいるよ……。鈴木君はここにいるのに……!!」
「雨宮……」
「触れるよ! あったかいよ! 鈴木君は生きてるんだよね!?」
鈴木君は緩やかに首を横に振る。
「そんなの……嫌だよ……」
もう、何も考えたくなかった。
鈴木君がいないのであれば、あんな世界になんの未練もない。
なぜ私はあんな世界に帰りたがっていたのだろう。
こんな真実を突きつけられるくらいなら、何も知らずに鈴木君とこの世界で暮らし、やがて海へと溶けてゆけば良かった。
それなのにどうして私は……。
「ここであなたを待っていて良かった。だって、何も知らずに向こうの世界に戻っていたら、あんなに残酷な世界が待っていたんだもん。感謝してよね」
もう一人の私は立ち上がり、軽くスカートを払う。
「……あなたは誰なの?」
私が問うと、もう一人の私は驚いた表情を浮かべる。
「え? 気付いてないの?」
私は首を横に振る。
すると彼女はわざとらしくやれやれというポーズを取った。
「冷たいなぁ。私は見たまんま、もう一人のあなたでしょう」
「もう一人の私?」
「だーかーらー、あなたが嫌な事を全部押し付けていた、もう一人のあなただよ」
そこで私はハッとする。
そうだ、私は鈴木君の人格を作る前に、もう一つの人格を持っていた。
嫌な事から目を逸らし、苦痛から逃れるために、私の肉体に残していた人格を。
「あなたを守るために、私が代わりに白石君からいじめられてあげていたでしょう? お父さん達と接する時も、いつも私が変わってあげていたじゃない。そしてあなたがビルの屋上から飛び降りた時も————」
彼女の声が、徐々に憎しみを帯びたものへと変わってゆく。
「あの時あなたは死ぬ程の絶望を感じていた。でも、自分で死ぬ事が怖かったあなたは、私に死ぬ事を押し付けたんだよ」
「そんな……」
「『そんな』じゃないよ。私だって怖かった。死にたくなかった。でも、主人格のあなたに命じられたら逆らえなかった。それまでの事もそう。いじめられたくなかったし、お父さん達と一緒にいたくなんてなかった。失恋の痛みだって味わいたくなかった。あなたは都合の良い時だけ出てきて、いいとこ取りだけをしていた」
「そ、そんなつもりじゃなかったの!」
「あなたがやった事はお父さん達がやってきた事と同じだよ! 自分のエゴのために抵抗できない他人に苦痛を押し付けて、自分は自己満足に浸る。そんなのあいつらと同じだよ!」
彼女の放つ憎しみの迫力に身が震えた。
「だって……私だって辛かったんだもん! 苦しかったんだもん!」
「誰だってそうだよ! みんなそれぞれ苦しみや悲しみを抱えて生きてる! 病気、孤独、貧乏、別れ、恵まれない環境、劣等感、死への恐怖。みんなそれぞれ抱えて生きている! でもね、自分がそれらから逃れるために、他人に苦痛を押し付けたらいけないんだよ! それをやってしまったら、その人は『悪』になるんだよ!」
そうだ。
彼女の言う通りだ。
私はお父さん達に、これまで散々エゴを押し付けられて生きてきた。
コンプレックや自分には叶えられなかった夢の残骸を押し付けられて生きてきた。
だから、そんな事をしてはいけないと嫌という程わかっていたはずなのに……。
「……でもね、私はあなたを許してあげる。だって私はあなただもの。自分が自分を許さないで、誰が許してくれるっていうの? そうでしょう?」
そう言った彼女の声は優しかった。
「だからね、一つだけ約束して」
「……約束?」
「うん。あのね、あなたはこの世界に残って、穏やかに死んでいって欲しいの。私はあなたをちゃんと死なせるように、あなたに命じられた。だから、あなたが元の世界に帰ろうとしなければ、何も嫌な事はしないよ」
なるほど、彼女は私が『私を死なせる』ように命じたから、私を元の世界に帰したくないのだ。
でも、約束などしなくても、私は元の世界に帰るつもりなどない。
私は彼女の目を見て、ゆっくりと頷こうとした。
しかし————
「ダメだ」
声を上げたのは鈴木君であった。
もう一人の私は鈴木君を睨み付ける。
「何がダメなの? これ以上『私』を苦しませたいの?」
「違う!」
「何が違うの? あなただってここにいた方がいいでしょう? 向こうに戻っても、あなたには肉体が無いんだよ? 『私』の心の隅に間借りして、『私』が一生を後悔しながら死んでゆくのが見たいの?」
鈴木君は首を横に振り、叫んだ。
「そんなんじゃねぇよ! 生きていれば、良い事だってきっとあるんだ!」
鈴木君の言葉に、もう一人の私は吹き出した。
「あははははは!! 馬鹿じゃないの? そんな安い感動映画みたいな事言って笑わせないでよ。『私』の人生にどんな良い事があったって言うの?」
そう、彼女の言う通りだ。
記憶の中の私はずっと苦しみを感じながら生きてきた。
そんな私が元の世界に希望を見出す事ができるはずがない。
「雨宮! お前カレー好きだろ!?」
鈴木君からの唐突な問いに、私は驚く。
「うん……」
「じゃあ、カレー食ってる時は幸せだ!」
「そ、そうかもしれないけど……」
確かにカレーを食べている時は幸せといえば幸せかもしれない。
「面白い本や映画と出会えた時はどうだ?」
「……嬉しい?」
「だろ? じゃあ、渡ろうと思ってた横断歩道の信号が、目の前でちょうど青になったら?」
「ラッキー……かな」
「そういう事だろ!」
「……どういう事?」
私には鈴木君が何を言おうとしているのかイマイチ理解できない。
「こいつが言うように、人は誰だって苦しみや悲しみを抱えて生きている。でも、大なり小なりの『良い事』を積み重ねながら生きる事で、それに争ってるんだ。だから『良い事』のために、金を稼いだり、友達を作ったり恋人を探す努力をするし、それに夢中になり過ぎて時には人に何かを押し付けてしまう事もある。お前にとっては『本物の俺』に出会えた事が『良い事』だった。だからお前は俺を作ったんだろ!?」
それは確かに鈴木君の言う通りだ。
私は本物の鈴木君と過ごした時間に幸せを感じていた。
だから試行錯誤をして、もう一人の鈴木君を生み出したのだ。
「人はみんな幸せを得るために生きるんだ。どんな環境でも、どんな苦しみの中でも、いつか死ぬとわかっていてもそうだ。時には心が折れて死にたいって思う事もあるだろうけど、お前が俺をプログラムしたみたいに、それは神様が人間に組み込んだプログラムなんだよ!」
その時私は、鈴木君がなぜ私を生かそうとしているのか理解したような気がした。
鈴木君は私の『苦しい現状を少しでも変えたい』という前向きな意思から生まれた存在だ。
だから鈴木君は、私に生きて欲しいと願っているのだ。
「生きろ雨宮! 確かにお前のこれまでの人生はろくでもなかったかもしれない! でも、生きている限り、お前には幸せに向かって歩むチャンスがあるんだ! お前だって本当は生きたいと思ってるんだろ!? だから記憶が無くても元の世界に帰りたがっていたんだろ!?」
熱弁を振るう鈴木君に、もう一人の私が反論する。
「幸せを求めるのが人だっていうなら、尚更この世界にいれば良いじゃない。この世界には苦しみなんて存在しないし、それは幸せって事でしょう?」
「そうかもしれない。でもな、人間にはもう一つ神様にプログラムされたものがある」
「へぇ、なに?」
彼女の問いに、鈴木君は答えた。
「それはな、生への執着だ。人は生きるか死ぬかの選択を迫られた時、生を選ぶようにできてるんだ」
「それは現状に満足しているか、未来に希望がある人間の選択でしょう? そうじゃなきゃ、そもそも『私』が自分から死にたいと思うはずがないじゃないの」
二人は互いに正面から睨み合う。
私はどちらを選べば良いのかわからなかった。
この世界に残り、鈴木君と二人で生きてゆくのか。
それとも、あの絶望に満ちた元の世界に帰るのか。
私はやっぱり————
私が口を開きかけたその時、鈴木君は言った。
「雨宮————元の世界でも、空は青いぞ」
その言葉を聞いて、私は学校の屋上で鈴木君と初めて会った時の事を思い出す。
あの日の空も、どこまでも晴れ渡る青空だった。
私は吐き出しかけた答えを飲み込み、鈴木君に問う。
「もう、キスできないよ?」
「それでも、俺はずっとお前と一緒だ。偽物だとしても、この世界で過ごした俺は、ずっとお前と一緒にいる」
鈴木君は少しだけ微笑み、私に向かって手を伸ばす。
「帰ろう。雨宮」
私は鈴木君の差し出した手を掴んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます