天空マンション
第51話
鈴木君は床にへたり込んでいた私の手を引いて立ち上がらせる。
すると、私はもう一人の私から悪寒に近いただならぬ気配を感じた。
「……どうして。そんなの許さない。私に自分を殺させておいて、気が変わったから元の世界に帰ろうだなんて、そんなの許さない!」
もう一人の私は憎しみを張り付けたかのような凄まじい形相で、私と鈴木君を睨み付けている。
そんな彼女に向かって、今度は私が手を差し出す。
「私があなたにした事は許される事じゃないかもしれない。でも、あなたも一緒に帰ろう。向こうの世界に待ってるのは確かにろくでもない現実かもしれないけど、私はもう一度あの世界で生きてみたい。今度はあなたを苦しめないように、もっと頑張って生きるから。だから、一緒に帰ろう」
「ふざけるな!!!!」
獣の叫びにも似た怒号を上げ、彼女はベッドに拳を叩きつける。
そしてマットの下に手を突っ込み、引き抜く。
その手には大振りな肉切り包丁が握られていた。
「こうなるかもしれないと思ってた……。臆病で弱虫な『私』はこの世界に永住する事さえ怖がって逃げ出すんじゃないかって……。だから優しくしてやったのに!!」
彼女は包丁を振り上げて、私に数歩歩み寄る。
突然の出来事に体が硬直していた私の手を、鈴木君が強く引いた。
ヒュン
もう一人の私が振り下ろした包丁の刃が、つい今まで私の頭があった場所を通過する。
「ボーっとするな! 逃げるぞ!」
鈴木君の声にハッとした私は、鈴木君に手を引かれて集中治療室から飛び出す。
長い廊下を走りながら背後を振り返ると、もう一人の私は扉の前に立ち、ジッとこちらを恨めしそうに見ていた。
そして廊下の角を曲がるまで、彼女が私達を追ってくる様子は見られなかった。
ただ、彼女が絶対に私を逃すはずがないだろうという予感はひしひしと感じられた。
☆
病院の外に出ると、辺りは宵闇に包まれており、この島を訪れた時からさほど時間が経過していないように感じられた。
そして遠くの方では、一本の細い光の柱が天に向かって伸びていた。
暗闇のせいで不確かではあるが、あれは天空マンションの方角だ。
もう一人の私が言っていた通り、私が記憶を取り戻した事により『帰り道』のようなものがあの場所に現れたのだろう。
私が再び背後を振り返ると、やはり彼女が追ってきている気配は無い。
しかし————
ガシャン
突如頭上からガラスの割れる音が響き、私の眼前に医療用具を運ぶワゴンが落下してきた。
あと一歩後ろにいれば、私の頭蓋はワゴンによって砕かれていただろう。
ゾッとしつつ頭上を見ると、そこにはガラスの割れた窓があり、窓からはもう一人の私が猛禽類のように爛々と目を光らせてこちらを見下ろしている。その目は明らかに正気の人間の目ではなかった。
「行くぞ雨宮!」
鈴木君は私の手を引いて走り出す。
私達は病院の前から伸びる舗装道路を駆け抜けて、近くを浮いていた島へと飛び移った。
☆
それから私達は逃げるように一時間程島を渡り歩き、飲食店の並ぶ島にあったレストランの中に身を潜めていた。
私がソファーに腰掛けて休んでいると、鈴木君は厨房から持ってきたらしいペットボトルの水を私に投げてよこす。
「……ありがとう」
蓋を開けて水を一口飲むと、疲労した身体に水分が染み渡ってゆく。私は自分で思っていた以上に喉が渇いていたのか、ペットボトルの水をそのまま半分程飲み干してしまった。
「少し休んどけよ。結構あちこち跳んできたし、暗いからあいつもすぐには追ってこないだろ」
そう言って鈴木君は窓からレストラン前の通りを見渡す。
一息ついた私は、窓から見張りを続ける鈴木君に言った。
「……ねぇ、ごめんね」
「何がだ?」
なんと言えば良いのかわからなかったけれど、鈴木君に対する罪悪感だけが、胸に重くのしかかっていた。
例えば、自分勝手な理由で鈴木君という人格を生み出した事とか、その鈴木君を自らの自殺に巻き込んでしまった事とか。
「その……色々……」
「別に謝る事ねぇよ。俺はお前なんだし、自分で自分に謝るってのはおかしいだろ。それよりちゃんと休んどけよ、色々あって疲れてるだろ」
今こうして話している鈴木君が私の人格の一部であるという事は、正直記憶を取り戻した今でも信じられない。
元の世界にいた頃はいつも頭の中で鈴木君と対話していたけれど、まさか肉体のある鈴木君と会話する事ができるとは思ってもいなかった。
いや、会話どころかこれまでずっと一緒に生活をしていたけれど、その時は記憶がなかったから……。
「でも、私がやった事って、お父さんやお母さんと変わらないよね。自分のために自分以外の存在を生み出して、自分の都合の良い存在に改造したり、嫌なものを押し付けるなんて……」
私にとって恐ろしかったのは、それを無意識のうちに行なっていたという事だ。
私はあの矮小な両親から生まれ、彼等によって育てられた。
だから私も気付かぬうちに彼等に似て矮小な人間になってしまっていたのかと思うと、自分を戒めたい気持ちでいっぱいになる。
そんな私に向かって鈴木君は言った。
「アホか、人間なんてそんなもんだろ」
「どういう事?」
「人間が何かを作る時、多かれ少なかれそこには必ず損得勘定があるだろ。誰だって自分が損するために何かを作るやつなんていねぇよ」
「そうかな……?」
「そうだろ。例えば、料理は食材をより美味しく食べるために作るもんだし、友達を作るのは孤独を回避するためだ。会社を作るのは金儲けのためだし、絵や本を描くのは自己表現のため。子供を作るのだって自分の遺伝子を残すためだ。まぁ、何のためかはその人の立場によるだろうけどな」
「……うん」
「んで、作ったものをどう扱うかも、作った奴の自由だ。それを大切にする奴もいるし、壊す奴も、捨てる奴もいる」
「でもそれは……」
「まぁ聞けよ。でもな、それには責任が伴うんだ。作ったものを大切にしていても仇で返される事もあるし、酷い扱いをしたせいで恨まれる場合だってある。少なくとも俺はこの世界に来る前から、お前を恨んだりしてなかったよ」
「それは私がそういうふうに性格を作ったから……」
「それで何が悪いんだ? 言っとくけど、俺は別にお前に生み出されて感謝もしてないぞ。俺は俺として生まれたから、俺として生きるだけだ。お前だってそうだろ? お前があの親から逃げたいと思えば逃げればいいし、弟を見捨てようと思えばそうすればいい。自分の行動の結果に責任を取るのは自分しかいないんだからな。お前の弟だってそうだ。お前が可哀想だと思うのは勝手だけど、あいつにはあいつの人生があって、あいつの選択肢がある」
「えーと……それって……」
「なるようになるって事だ。お前が弟を両親から守ったり、大学まで出してやるのは勝手だけど、その結果弟がニートになる事もあるし、お前を逆恨みする事もあり得るって話だ。まぁ、大企業の社長になって、お前に大豪邸買ってくれる可能性もあるけどな」
「なんていうか……人間って凄く勝手だね」
「そんなのお前が一番よく分かってるだろ。お前の両親も、お前も、俺だって勝手だし、自由だ。何に縛られるかもな。自分の人生を誰かのせいにしたって、同情はしてもらえても誰も助けてくれないし、結局自分の幸せは自分で選んで掴むしかないって事だ。こればっかりは原始時代と何も変わってないんだろうな」
鈴木君の言う事は少し難しかったけれど、要するに『あまり気にするな』って言いたいのだと私は捉えた。
「でも私、もう一人の私に酷い事しちゃった……」
「だからお前を殺そうとしてくるんだろ。それは自業自得ってやつだ。でもお前が生きたいって思うなら、自分のやった事に立ち向かわなかきゃどうしようもねぇだろ」
「……うん」
自分のやった事に立ち向かう……。
今の状況で言えば、彼女から逃げて天空マンションに辿り着き、元の世界に帰る事がそうなのだろうか。
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