第53話

 レストランのある島を出た私達は、もう一人の私に追いつかれぬように気を配りながら、光の柱を目印に天空マンションを目指した。


 朝からの移動続きで疲労は蓄積されていたが、それでも休んでいる暇は無かった。

 もし次に追いつかれたら無事でいられる保証はないし、恐らく彼女の説得も不可能であろう。

 先程レストランで見た彼女からは、そう思わせる程に狂気的な憎しみが迸っており、むしろ私を狩る事を楽しんでいるようにすら見えた。


 そして、夜を徹しての行軍のおかげで、私達はもう一人の私に追いつかれる事なく、夜が明ける前には天空マンションとすれ違おうとしている公園島へと辿り着くことができた。


 天空マンションが跳び移れる距離に近付くまでの間、私達は公園島のベンチに腰掛けて僅かな休息を取る。

 一息つきながら正面上空を見上げると、ゆっくりとこちらに近付いてくる天空マンションの屋上からは、遠目から見た通りに光の柱が立ち昇っている。

 あそこに到達すれば、多分私達は元の世界に帰る事ができるのだ。


「やっと帰り着いたか……」

 疲労困憊の様子の鈴木君は、自動販売機で手に入れてきた缶ジュースを一気に飲み干す。


 もう帰って来ることはないと思っていた天空マンションに、望ましい状況ではないとはいえ、私はまた帰って来ることができた。

 できることならば鈴木君ともっとゆっくりお別れをしたかったけれども、そう言っていられる状況でもないだろう。

 こうしている間にも、もう一人の私がいつ襲撃してきてもおかしくはないのだ。


 辺りには人影はないが、もし彼女がわざと私達の前に姿を現さず、私達が疲労するのを待っていたのだとするならば、マンションを目前にして油断しているこのタイミングで仕掛けて来る可能性は大いにある。

 一応争いになった時のことを考えて、道中で鉄製のパイプを拾ってきてはいたけれど、人の脳天に躊躇なく肉切り包丁を振り下ろせる彼女には、二対一でも勝てるとは思えない。


 パイプを片手にキョロキョロと落ち着きなく辺りを警戒する私の手を、鈴木君が握った。


「少しは落ち着けよ。もうすぐ帰れるんだぞ」

「でも……」

 私はニヒルながらも優しげな笑みを浮かべる鈴木君の顔を見る。

 もうすぐこの顔を肉眼で見ることができなくなると考えると、やっぱり寂しかった。


「そんな悲しそうな顔するなよな。こっちが申し訳なくなってくるだろ」

「ゴメン……」

「だから、前から言ってるけど、そうやってすぐ謝るなって。そんなんだと向こうの世界でナメられるぞ」

 そうだ、元の世界に戻れば私にはろくでもない現実が待っている。私はもっと強くならねばならないのだ。

 精神的にも、肉体的にも、もう自分の命を絶とうと思わなくても済むように。


「ねぇ、鈴木君……」

「ん?」

「私達が出会った時の事、覚えてる?」

「あぁ、お前から思いっきり張り手喰らったよな」

 私は頷き、鈴木君に見せつけるように掌を振りかぶる。


「おいおい! 何するつもりだ!?」

「あの時の張り手がいつでも打てるようになったらナメられなくなるでしょ?」

「まぁ、あの張り手は痛かったからな……」

「もう一回、練習させて」

「ふざけんな! おい! よせ! 止めろ!」


 そして私は、鈴木君に向けて掌を突き出した。


「んぐっ……」

 張り手を寸止めした私の唇が、目を瞑った鈴木君の唇に触れる。


「んっ……」

 息が止まるほどの長いキスの後、私は自分から唇を離した。


「ぷはっ! な、なんだよ急に!」

「私からしたの初めてだよね」

 初めてキスをしたあの日から、私と鈴木君は何度もキスをした。でも、私から鈴木君にキスをしたことはなかった。するようにせがんだことはあったけれど、なんだか自分からするのは恥ずかしかったから。


「これで、少しは強くなれたかな?」

「……結構効いたよ。あの張り手くらいはな」

 そう言った鈴木君の顔は真っ赤に染まっていた。

 多分、私の顔も赤くなっていたはずだ。

 全身が熱くなっていたし、心臓がドキドキと高鳴っていたから。


 これから私はろくでもない現状が待っている、ろくでもない世界に帰る。

 でも、鈴木君と過ごした天空マンションでの生活と、このキスを思い出せば強く生きて行けるだろう。いや、強く生きてゆかねばならないんだ。


「泣くなよ」

「……え?」

 私は自分の頬を伝う涙に気付いていなかった。

 鈴木君は私の頬を指で乱暴に拭う。


「俺達はサヨナラするわけじゃねぇんだ。俺はお前の中にずっといるんだから」

「でも……でも……!!」

 わかっている。

 頭ではわかっているのだ。

 鈴木君は私の人格の一つとして、ただ私の中に戻るだけなのだと。

 それでも、それでもやっぱり……。


 鈴木君の腕が私を抱きしめる。

 鈴木君の体は温かくて、その温度が切なかった。


「雨宮鳴海、俺はお前が好きだ。お前がいつか他の誰かと結ばれても、俺はお前の中でずっとお前を守り続ける」

「私も……私も鈴木君の事が好き! 鈴木君が……今ここにいる鈴木君が好きだよ!」


 夜明けを前にして熱い抱擁を交わす私達の頭上から、天空マンションが影を落とした。

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