第54話

 私達は荷物を手に取り、斜め上空に鎮座するマンションを見上げる。

 何時見ても相変わらずのボロ具合ではあったが、私にとっては世界中のどこに存在するマンションよりも愛着のあるマンションだ。


「あいつの気配は無いか?」

「……うん、大丈夫そう」


 もう一人の私が仕掛けて来るならばここだと思ったのだが、結局彼女の襲撃は無かった。恐らくどこかの島で跳び移るタイミングを逃し、遠回りすることになってしまったのだろう。


「めでたい帰還を前にして、あいつに出てこられたら台無しだもんな」

「……うん」

 もう一人の私をこの世界に残していくのは正直気にかかる。

 でも、私が彼女に私を殺すように命じてしまった以上、私には何もしてあげられることはない。

 もしかしたら私が元の世界に帰ることで、彼女も自動的に私の中に戻って来る可能性も考えたけれど、この世界で個別の魂として肉体を与えられた以上その可能性は少ない。

 だから私に出来る事は、ただ彼女がこの世界で穏やかに過ごす事を願うだけだ。


「じゃあ、行くぞ」

「うん」

 私と鈴木君は同時に身を屈め、地を蹴った。

 全身を吹き抜けてゆく風と共に、マンションが視界の中で大きくなってゆく。


 その時、マンション島の端から一つの影が宙空へと舞った。

 それと同時に私の背筋に悪寒が走る。


「おかえりぃぃぃぃぃい!!」


 彼女だ。

 もう一人の私だ。


 背後から追われながら最短距離でマンションへと向かっていたつもりだった私達は、待ち伏せの可能性を考慮していなかった。


 狂気的な笑みを浮かべながらマンション島から落下してきたもう一人の私が正面から組みつくと、私の体は上昇を止めて公園島へと落下を始める。


「雨宮!!」


 隣を跳んでいた鈴木君の姿が一瞬にして遠ざかり、私は公園島の地面へと叩きつけられた。

 落下による衝撃はなかったが、もう一人の私によって押し込まれた分の衝撃は軽減されておらず、後頭部に激しい痛みが走る。


「帰ってくるの待ってたんだよぉ。ご飯にする? お風呂にする? それともぉ……死ぬ?」


 もう一人の私はそのまま私に馬乗りになると、両手で私の首を締め上げてきた。


「あ……が……」

 そのあまりの怪力に、私は意識が無くなる前に首の骨が折れる予感を強く感じた。


 私は死に物狂いでもう一人の私の腕に爪を立てる。

 しかし彼女は微塵も力を緩めない。

 視界が徐々に暗くなり、意識が遠のいてゆく。


「雨宮ぁ!!」

 鈴木君の声が聞こえた次の瞬間、首に掛かる圧力が消えた。

 マンション島から引き返してきた鈴木君が、もう一人の私を引き剥がしたのだ。


「ゲホッ……ゲホッ……」

 視界がチカチカと瞬き、急激に空気を取り込んだ肺が反射的に咳を発するが、私はなんとか起き上がる。

 すると、鈴木君の腕の中でもう一人の私が激しく暴れ回り、鈴木君から逃れようとしていた。


「先に行け雨宮!!」

「だ……ゲホッ……」

 気道を強く圧迫されていたせいか、『鈴木君を置いて行けるはずがない』と声を発しようとした私の喉からは、ただ掠れた咳が漏れただけであった。


「放せぇ!!」

 もう一人の私は勢いよく頭を振り、鈴木君に頭突きを食らわせると、力が緩んだ隙に鈴木君の腕から抜け出した。

 そしてポケットから小さなナイフを取り出し、私に襲い掛かる。


 私はよろけるようにナイフの刃を躱したが、頬に焼けるような熱さを感じ、それはすぐに鋭い痛みへと変わる。

 頬に触れた私の手には、ヌルリとした赤い液体がベットリと付着していた。


「やめて! もうやめてよ!!」


 私の叫びはもう一人の私には届かず、彼女はナイフを振り上げて再び私に襲い掛かってくる。

 そんな彼女の顔面を、横から割り込んできた鈴木君の拳が捉えた。


 カウンター気味に交錯した拳が顔面を打ち抜き、もう一人の私は勢いよく地面に倒れ、そのまま動かなくなる。恐らく脳震盪を起こしたのだろう。

 鈴木君は彼女を睨みつけながら、ぜいぜいと肩で息をしていた。


「言っただろ……お前を……守るって……」

「……ありがとう」

 私を助けてくれた鈴木君は格好良かったけれど、今は感動のハグを交わしている場合ではない。


「今のうちに行くぞ!」

「うん!」


 私は頷き、マンション島へと跳躍する。

 上昇しながら足下を振り返ると、鈴木君も私に続いて跳躍していた。


 だが————


 下方にいる鈴木君の更に下から、邪悪な笑みを浮かべた相貌が私に狙いを定めていた。

 いつの間にか起き上がっていたもう一人の私は、猫科の猛獣のように身を屈めて跳躍し、鈴木君を追い越して私へと手を伸ばす。


 しかし、そんな彼女の足を鈴木君が掴んだ。

 跳躍の勢いが落ちた鈴木君ともう一人の私は、放物線を描き、空中で揉み合いながら公園島の外へと落下してゆく。


「鈴木君!!」


 マンション島に着地した私は、すぐに振り返って公園島へと飛び降りる。

 そして二人が落下して行った方へと更に飛び降りた。


 宙に舞う私の目に、遥か下方を落下してゆく二人の姿が見えた。私は追いつこうと空を手で漕ぐが、その距離は一向に縮まらない。


 ダメだ、このままでは二人共海に……。


「鈴木君!!!!」


 私は必死に鈴木君の名を叫ぶ。

 すると、豆粒程に小さく見える鈴木君が、こちらを振り向いたような気がした。


 そして————


 鈴木君ともう一人の私の姿は、音もなく海の中へと消えた。


 思考が停止した私の体を強風が攫い、私はすぐ側を通過しようとしていた島の地面に叩き付けられる。

 私はヨロヨロと立ち上がり、島の端から下を覗き込む。


 そしてそこに広がる海と行き来する島々を、いつまでも、いつまでも眺めていた。


 自らが見た光景が幻である事を願いながら。

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