第48話

 それからしばらく経ったある日の夜の事だった。


 部屋にいた私は両親に呼ばれて、『また何か嫌な事を言われるのだろうか』と覚悟しながらリビングのある一階へと下りた。

 両親は深刻そうな顔でソファーに座っており、その隣には陸も座っていた。


 私が両親の対面に座ると、まず口を開いたのはお母さんだった。


「鳴海、よく聞いて。あのね……お父さんが働いている会社が倒産しちゃったの」

 その言葉に私は少しだけ驚いた。

 私が何を言ってもいつも能天気にしていたお母さんの顔が、珍しく悲しみに暮れている。


「それでね、鳴海には高校を辞めて働いて欲しいの」

「……え?」

 私が聞き返す間もなく、お母さんは矢継ぎ早に喋り続ける。


「お父さんの再就職先が見つかるかも分からないし、このままだと陸を大学まで出してやる事ができないの。あなたもまだ一年生だし、辞めるなら早い方がいいでしょう? ねぇ、お母さんもパートに出るから、一緒に頑張りましょう?」


 何か言われるだろうと覚悟はしていたが、まさかいきなりそんな事を言われるとは夢にも思っていなかった。


「き、急にそんな事言われても……」

『無』になっていたはずの私の精神は、いつの間にか肉体に戻っていた。


「あなたを無理して私立の小学校に入れたせいで、うちにはもうお金が無いのよ。家のローンもまだ二十年残ってるし、いずれあなたがこの家を継ぐかもしれないんだから、返済を手伝ってくれてもいいでしょう?」

「ま、待ってよ! 何で私がお父さん達が買った家のお金まで……!!」

「いいじゃないの。いずれあなたがこの家を相続するかもしれないんだし、あなたが結婚したらこの家に住めばいいんだから。そうすれば私達が介護が必要になっても通わなくていいから便利じゃない。これまで育てて貰った恩返しだと思って……ねっ?」


 冗談じゃない。

 確かに私はこれまで両親に育てて貰った。

 今高校に通えているのも両親のおかげだ。

 でも、それと同時に苦痛も味わってきた。

 家族という逃げられない鎖に縛られて、煮湯を飲まされるような苦痛を……。


 それなのにこれから家のローンが終わるまで二十年も人生を縛られて、更に介護までなんて……。


「高校の学費は自分で働いて払う……。でも、家のローンとか、介護とか、陸の学費までは……」

 すると、今度はお父さんが口を開く。


「何を甘えた事を言ってるんだ! これまでお前にいくら金をかけたかわかっているのか!? 小さい頃からの習い事、私立の学費、頭の病院代、全部俺の金だ! お前がこれまで暮らしてきた家の家賃くらい返したらどうだ!? 陸の事だって、そもそもお前がまともな子供なら陸を仕込んだりしなかったんだ!」


『ふざけるな!』と、叫びたかった。

 言いたい事は沢山ある。

 でも、私がこれまで育てて貰ったという事は事実であり、その恩義を返さない事が不義理であると言われると、言い返す事ができない。

 ただ救いだったのは、陸がお父さんの言葉を理解していないだろうという事だ。

 陸は怯えた表情を浮かべ、私とお父さんの顔を見比べている。

 もし陸がお父さんの言葉を理解していたら、酷いショックを受けていただろう。


「り、陸の前で二度とそんな事言わないで! 大体、まともな子供だったらって何!? 確かに私はまともじゃないかもしれないけど、そんな風に育てたのはお父さん達でしょう!?」

「お前を教育したのはお母さんだろ! そういう文句はお母さんに言え!」

 お母さんはハッとして、お父さんに反論する。


「な……!? あなたが『鳴海の事はお前に任せる』って言ったんでしょう!? 鳴海を私立に入れたらどうだって最初に言い出したのはあなたのお義父さんじゃない!」

「俺は親父の言った事をお前に伝えただけだ! それをどうするか決めるのはお前次第だっただろう!?」


「あなたはいつも『俺は長男だから』って言ってお義父さんの言う事には何でも従うじゃないですか! この家を実家の近くに建てたのも私にお義父さん達の介護をさせるためでしょう!? 最初は鳴海の育児のために私の実家の近くに建てようって話だったじゃないですか! おかげで私は仕事を辞める事になって……」

「長男の嫁が義両親の介護をするのは当たり前だろう!? 過ぎた事をごちゃごちゃ言うな! お前のそういう所が鳴海に移ったんだ!」


 いつも通りの、お父さんとお母さんの喧嘩だ。

 傲慢とエゴと責任転嫁が行ったり来たりする、何の生産性もない醜い争い。

 私は幼い頃から毎日のようにこの喧嘩を見て育った。

 食事中だろうと、私が勉強をしていようと、出先の車の中だろうと、この二人は構わずにこのような喧嘩を繰り返してきた。


 なぜこの人達は結婚したのだろう。

 結婚とは幸せになるためにするはずなのに、なぜこれほどまでに不幸せに見えるのだろう。

 なぜ離婚をしないのだろう。

 私はずっとそんな事を考えながら生きてきた。


 その結果、両親はどれだけ喧嘩を繰り返しても、絶対に離婚を選ぶ事がない理由を私は知った。

 なぜ離婚しないのか。

 それは、二人は愛で結婚したわけではないからだ。

 二人の間にあるのは、利害関係と世間体だけである。

 それがある限り、二人が離婚を選ぶ事はあり得ないのだ。


 私が見聞きした情報の寄せ集めではあるが、二人の結婚の経緯は大体把握している。


 お父さんには、容姿端麗でスポーツも勉強もできて、周りからの人望も厚い弟がいる。

 お父さんはそんな弟に強いコンプレックを抱いており、長男である事だけがただ一つのアイディンティティだった。

 しかし、ご覧の通りの偉そうな性格のせいで、四十を過ぎても結婚相手が見つからなかった。


 一方お母さんは田舎の農家の出身で、小さい頃から勉強ができたにも関わらず、お金が無くて大学に行かせてもらえなかった事を恨んでいた。

 だから自分は金のある男と結婚し、子供には自分のできなかった事をやらせようと各策していたのだ。


 お父さんは『長男として親に孫の顔を見せなれけばならない』。

 お母さんは『子供に英才教育を施し、自分には歩めなかったエリート街道を歩ませたい』。


 そんな目的を持つ二人が出会い、二人は互いに愛し合っているフリをして、目的を果たすために結婚したのだ。

 その二人の間に生まれたのが私だ。

 本来であれば子供とは男女の愛の結晶であるが、愛の無い二人の間に生まれた私は、二人のエゴの結晶なのだ。


「もうやめてよっ!!!!」


 私の悲鳴に近い叫び声に、リビングは静まり返る。


「もう……やめてよ……」

 私は脱力感に膝をつき、その場で涙を流した。

 そんな私に、お父さんとお母さんはうって変わって優しい声で語りかける。


「すまないな鳴海、急な事でお前もショックだよな」

「これからは家族一丸となって頑張っていきましょうね。ほら、今は高認とかもあるし、なんとかなるわよ」

「そもそも女は学歴なんて無くても家庭に入ればいいしな」

「あら、そんな考え方古いわよ。でも、鳴海なら学歴なんかなくてもきっといい人と結婚できるわよ。こんなに可愛いんだからねぇ」

 私は肩に触れようとした両親の手を払い除ける。


「嫌だ! 嫌だ!」

 メリメリと心が引き裂かれていくかのような痛みに、私はただ子供のように駄々をこねるしかできなかった。

 両親は顔を見合わせて、今度は陸へと歩み寄る。


「じゃあ、あなたは陸が大学に行けなくてもいいの?」

「かわいい弟に苦労をさせるつもりか?」

 陸の方を見ると、陸はただ不安そうな顔で両親の顔を見比べている。

 そして私は陸を憐れむ両親の顔の向こうに、かつて私にゴキブリを押し付けようとした時の下衆な笑みを見た。


 そう、お父さんとお母さんは、私が陸を見捨てられない事を知っているのだ。

 それを利用して、私をこの家に一生縛りつけようとしているのだ。


 ブツッ……ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ……


 私の心の中で、何かが無理矢理引き剥がされる感覚があった。


 その時だ————


 リビングのドアが開き、誰かが中に入ってきた。


「おい、あんたら好き勝手言ってるんじゃねぇよ」

 リビングに入ってきたのは、なんとあの鈴木君であった。


 鈴木君は両親を睨みつけると、いきなりお父さんに殴りかかり顔面に拳を打ち付けた。


 お父さんがソファーごとひっくり返ると、鈴木君は私の手を取り、「行くぞ」と言って家を飛び出した。

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