第57話
まず感じたのは、火花が散るような顔面の鋭い痛み。
拳と歯に押しつぶされた内頬の肉が切れ、一瞬にして口内に血の味が広がる。
そして次に感じたのは、骨が折れたのではないかと思うほどの拳の鈍い痛み。
まるでボーリング玉を殴ったかのような硬さが、皮膚の薄い拳から肩まで痺れるような衝撃を伝えた。
初めて拳で人を殴り、殴られた私にとって、それらは未知の痛みであった。
しかし、それよりも更に鮮烈だったのは、自分の意思で他人を殴ったという事実に対する胸の痛み。
それは後味が悪く、胸が震える程の不快な痛みだ。
しかも、自分と同じ姿をしている人間を殴るだなんて、これ程不快な事はない。
お父さんやお母さんが、私を素手で叩けなかった理由がわかったような気がした。
それでも私は踏み止まり、拳を構える。
正しい拳の握り方も、ファイティングポーズの取り方も知らない。
でも、それは相手も同じ事だ。
相手はもう一人の私なのだから。
再び相手の間合いに踏み込んだ私達は、拳を乱雑に振り回し、一歩も退かずにお互いを痛めつけ合う。
顔面を、胸を、腹を、肩を、腕を。
自らの拳が相手の体を傷付ける度に、身を切るような痛みが胸を襲う。
私は他者に傷付けられる痛みを知っている。
だからこそ、尚更胸が痛かった。
それでも私は何度も相手の体に拳を打ち付ける。
それが私に対する罰であり、もう一人の私への償いだと思ったから。
そして、鈴木君を奪った彼女が憎かったから。
女の子同士の喧嘩にありがちな掴み合いにならなかったのは、それは多分お互いの中に共通の美学と意地があったからだ。
この争いは一片の引け目もなく、気高いものでなければいけないと、もう一人の私も感じていたのだろう。
どちらが勝つにしても、これは雨宮鳴海による、雨宮鳴海のための、雨宮鳴海同士の戦いなのだから。
痛みと疲労で拳を振れなくなった私達は、どちらともなく蹴りを繰り出す。
フラフラになっていた私達は互いの蹴りを受け、無様に転び、立ち上がる。
そして再び歩み寄り、肘や頭まで使い、また互いに傷付け合う。
「お前の! せいで! 鈴木君が!」
「うるさい! 死ぬこともできない卑怯者! 死ね!」
「私は死なない! 死んでも! 生きてやるんだ!」
「黙れ! 死ね! 死ね! 私と一緒に死ねぇ!!」
私はもう、自らの顔面を伝う液体が汗なのか、血液なのか、鼻水なのか、涙なのかわからなかった。
ただひたすらに苦しくて、悲しくて、痛かった。
やがて立っていることさえ辛くなった私達は、抱き合うように互いにもたれかかり、体を支え合う。
もう一人の私の熱い吐息が耳にかかり、続いて肩に鋭い痛みが走った。
もう一人の私が私の肩に噛みついたのだ。
私は痛みに顔を顰めながら相手の両肩を掴み、突き放す。
私達は互いによろめき、尻餅をついた。
ドクドクと心臓が脈打ち、手足はガクガクと震えている。
それでも私達は這いずるように立ち上がり、また睨み合う。
次が最後の一発になるだろうと、相手の目を見ればわかった。
私は強く握りすぎて開かなくなった右拳を、左手の指で無理矢理引き剥がす。
開かれた指はビクビクと別の生き物のように痙攣していた。
一息ついた事により、激しい疲労と吐き気が押し寄せてくる。視界は霞み、体はロボットのようにぎこちなくしか動かない。
それでも私は————
「あぁぁぁぁぁあ!!!!」
雄叫びと共に先に地を蹴ったのは、相手の方だった。
私も負けじと足を踏み出し、力の限り叫んだ。
「私が!! 私なんかに!! 負ぁけるもんかぁぁぁぁぁぁあ!!!!」
次の瞬間、私達は交錯し、もう一人の私の拳が私の頬を掠めた。
目を見開いた相手の鼻面に、私は渾身の力で張り手を叩き込む。
「オラぁぁぁぁぁあ!!!!」
そして全体重を乗せて、腕を振り抜いた。
鮮血が宙に舞い、もう一人の私は落下防止用の柵まで吹っ飛ぶ。
そしてそのまま床にへたり込み、動かなくなった。
「ゲボッ……!!」
血と胃液が混じった液体が口から溢れ、私はその場に崩れ落ちる。もう二度と立ち上がれないのではないかとすら思うほどの、激しい疲労と痛みが全身を支配していた。
でも、私にはまだやる事が残っている。
「……ねぇ」
私が呼びかけると、もう一人の私はゆっくりと顔を上げた。
そんな彼女に向けて、私は手を差し出す。
「一緒に……帰ろう」
するともう一人の私はニヤリと笑い、柵を支えにして立ち上がる。
「嫌だよ」
私はもう、立ち上がる事はできなかった。
「もうあなたにだけ辛い思いはさせない! 私、頑張って生きるから! 強く生きるから……。だから、一緒に生きようよ!」
もう一人の私は更に鼻で笑う。
「バーカ、あんなクソみたいな世界に未練なんてあるもんか。帰りたければ勝手に帰れ。お前はこれから一人ぼっちで、あのクソみたいな世界で生きていくんだ。悲しんで、苦しんで、『あの時帰らなければ良かった』って後悔しながら生きていけ」
「でも……!!」
「でもじゃない! 私はあんたから解放されて、やっと自由になれるんだ……!!」
そして彼女は身を屈めると、後ろ向きに跳躍し、空に身を預ける。
「あっ……!!」
と、声を上げる暇もなかった。
「……バイバイ、私」
そう呟いて落ちてゆくもう一人の私の顔に、一瞬寂しげな笑顔が浮かんだような気がした。
それは憎しみも皮肉も込められていない、私自身の笑みだった。
唖然としている私の隣に、鈴木君が舞い降りてくる。
「きっと、これで良かったんだ」
「……そうなのかな」
「そうじゃなきゃ、あいつも報われないだろ」
あの子は、もう一人の私は私を殺そうとしていた。
でも、それは私が命じた事であり、私が苦しみから逃れたかったからだ。
それなのに、私だけが元の世界に帰って本当に良いのだろうか。
「今更ごちゃごちゃ考えるなよ。お前はこれからそういうの全部背負って生きていくんだ。あいつの事も、俺の事も」
「……うん」
私が頷くと、背後で何かが輝き、私は振り返る。
すると、そこには消えたはずの光の柱が現れていた。
「帰る時間だな」
鈴木君はへたり込んでいる私に手を差し出し、私はそれを掴もうとする。
しかし、私の手は掴んだはずの鈴木君の手をすり抜けてしまった。
「悪い、俺の方も時間みたいだわ」
「……ううん、大丈夫。一人で立てるよ。私、一人でも頑張れるよ!」
私は震える足で立ち上がり、すっかり姿の薄くなった鈴木君を抱きしめる。
感触はなかったけれど、鈴木君も私を抱きしめてくれたのがわかった。
「鈴木君……! ごめんね! 私のせいで……ごめんね!」
「バカ、謝るなよ。お前が死んでたらどうせ俺も消えてただろうし、俺だけお前の体に戻ったらえらい事になるだろ」
「そうかもしれないけど……」
「それに、俺は感謝してるんだぞ」
「……感謝?」
「おう。元の世界でお前を守れなかった俺が、今度はお前の事を救えたんだ。最高じゃねぇか」
そう言って鈴木君は体を離すと、いつものように皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「鈴木君……」
鈴木君の手が、私の頬を撫でる。
すると、顔の痛みが嘘のように引いた。
「最後のお別れが、青タン顔じゃ嫌だろ」
「な、なんでそんな人間離れした事ができるようになっちゃったの!?」
「できるようになったもんは仕方ねぇだろ。それに、最後にお前の顔、ちゃんと見ときたかったからな」
最後という言葉が、私の胸をツキンと突いた。
「……私、鈴木君の事絶対に忘れない」
「月並みなセリフだなぁ」
「最後のお別れなんだから茶化さないでよ!」
私がそう言うと、鈴木君はポリポリと頭を掻いた。
「だってよぉ、普通にお別れしたら……寂しいだろ」
「え?」
「だからぁ、寂しいって言ってんだよ」
「もう一回言って」
「だから……寂しいって!」
「もう一回」
「お前の方が茶化してるじゃねぇか!」
「あははははは!!」
私は笑いながら泣いていた。
先日公園でお別れをした時とは違い、今度は鈴木君も泣いていた。
「……泣いてんじゃねぇよ」
「鈴木君こそ」
「だって……泣くだろそりゃ!」
「何それ!? 人には泣くなって言ったくせに!」
「お前は泣きすぎなんだよ!」
「そんな事……あるかも……」
「だろ?」
この世界で過ごした半年で、私は何度涙を流しただろう。
でも、この涙はきっと、明日を生きる私を支えてくれる。
そう信じたい。
短い沈黙の後、私達は見つめ合う。
鈴木君の姿はもう向こう側が見透せるほどに透けていた。
「じゃあ、元気でな」
「うん、鈴木君も元気で」
互いに差し出した手がエア握手を結ぶ。
その時だ————
鈴木君の全身が輝き、その手が私の手を握った。
「この世界のカミサマは随分気前が良いんだな」
「……うん」
私達はもう一度互いに抱きしめ合い、その温もりを噛み締める。
「鈴木君……本当にありがとう。大好きだよ」
「……俺もだ」
そして、唇を合わせた。
長い長いキスの後、私が目を開けると、鈴木君の姿は消えていた。
押し潰されそうな切なさの中で、私は空を見上げる。
するとそこには、私がこの世界を訪れた日と変わらない、果てしない青空のキャンバスが広がっており、キャンバスの所々には薄い乳白色の雲が染みを作っていた。
私は光の柱へと向き直り、一歩足を踏み出す。
そして空へと向かって————跳んだ。
『じゃあな、雨宮』
薄れゆく意識の中で、私は鈴木君の声を聞いたような気がした。
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