第58話 エピローグ

 季節は春。

 乗客が私を含めて三人しかいないローカル線のバスを降りると、そこにはおよそ『田舎』という単語から連想できる田園風景が広がっており、草と土の匂いが私の鼻を擽る。


 私はトタン屋根のついたバス停に設置されている木製のベンチに腰掛け、もうすぐ迎えに現れるはずの叔父の車を待つ事にした。


 目の前には忙しなくトンボが舞う田んぼがあり、その先には数軒の民家が、更にその先にはなだらかな山地が続いている。

 普段見慣れぬ緑と茶に彩られた穏やかな光景に、私は思わず小さなため息を吐いた。


 私が病院で目を覚ましてから七ヵ月が過ぎた。


 五階建ての雑居ビルから飛び降りた私は、左腕と両足の骨折と、全身打撲、軽度の脳挫傷という結構な大怪我をしたけれど、打ちどころがよかったというのと、発見されたのが早かったおかげで、奇跡的に命に別状はなかった。


 私の怪我は異様に早く回復し、後遺症も残らずに、今はすっかり元気である。回復の早さにはお医者さんも驚いていたくらいだ。


 向こうの世界の事は大体覚えている。

 天空マンションの事も、鈴木君の事も、もう一人の私の事も。

 目覚めた当初は夢の中の出来事だったかのように記憶が朧げだったけれど、胸に大きな穴が空いたかのような喪失感が全てを思い出させてくれた。


 ただ、向こうで読んだはずの本や映画の内容は、全く思い出せなかった。私がこちらの世界に戻った事により、多分なんらかの帳尻が合わされたのだろう。


 そういえば、目覚めた時に驚いた事がある。

 それは時間の経過についてだ。

 私は向こうの世界で約半年間を過ごした。

 しかし、こちらの世界では私が飛び降りてから三日しか経っておらず、そのギャップには結構驚いた。逆浦島太郎現象とでもいうのだろうか。

 まぁ、次元の違う世界の事だし、時間の流れに大きな違いがあっても不思議ではない。

 鈴木君が私よりも先にあの世界に現れたのも、きっとその辺が関係しているのだろう。


 向こうの世界で過ごした半年間は濃密な時間だったけれど、目を覚ましてからの七ヵ月間も色々とあった。


 まずは家族の事。

 私が集中治療室から病室を移された時に、お父さん達はすぐにお見舞いに来てくれた。

 陸は普通に私の事を心配してくれたけれど、お父さん達は相変わらずで、心配する素振りを見せながらも入院費の事や世間体の事を色々と言ってきた。心配の言葉よりも愚痴の方が圧倒的に多かったくらいだ。

 まぁ、別に今更あの二人に優しい言葉を期待してはいなかったし、迷惑をかけてしまった事は事実なので、表面上は謝っておいたけれど。

 あの二人に素直な気持ちで謝罪ができるほど、私は人間ができていないのだ。

 ただ、それから割とすぐにお父さんの再就職先が見つかった事は色々な意味で良かったと思う。


 次に、鈴木君の事。

 私の中にいた鈴木君ではなく、元祖鈴木君の事だ。

 目を覚ましてしばらく経った頃、鈴木君とみーちゃんカップルがお見舞いに来てくれた。

 鈴木君は私と疎遠になってからも、私の事を友達として認識してくれていたみたいで、私が入院したと聞いてからずっと心配してくれていたそうだ。


 そしてみーちゃんも。

 みーちゃんは泣きながら、私と再会した時に初対面のフリをした理由を教えてくれた。

 私が白石君を叩いて先生に呼び出された時に、みーちゃんは私の事を庇おうとしてくれたらしい。しかし、大人達の都合で私を庇う事も、お礼を言う事もできずに転校させられてしまった事を、ずっと後ろめたく思っていたのだそうだ。

 私はてっきり、私が余計な事をしたせいで転校を余儀なくされた事を恨んでいるのかと思っていたが、どうやらそれは勘違いだったようだ。


 後は、私のこれからの事。

 私は入院中に、これからどう生きていこうかを色々考えていた。

 そんな中、お父さんの弟である叔父さんがお見舞いに来た。

 叔父さんは普段は地方で農園を経営しているけれど、お爺ちゃんの三回忌でたまたま実家の方に帰ってきたのだそうだ。

 両親抜きで叔父さんと会うのは初めてだったので、私は思い切って家族の事や自分の将来について相談をしてみた。


 叔父さんは真剣に話を聞いてくれた結果、

「一度家を離れて、うちで住み込みで働きながら夜間の学校に通ってはどうか」

 と提案してくれた。

 私は一月考えて、その提案にありがたく乗らせてもらう事に決めた。


 私の決断にお父さんもお母さんも猛反対したけれど、私は頑として譲らなかった。

 あの人達は世間体的にも所有欲的にも私を側に置いておきたいのだろうけど、それに従っていたら自分が壊れてしまう事は私がよくわかっていたから。

 その事については何度も口論したけれど、最終的に両親は『親に向かってその口の利き方はなんだ!?』と『お前を育てるのにいくら金をかけたと思っている!?』しか言わなくなるので、それが尚更私の決断を確固たるものにした。


 そして怪我が完治した今、私は家出同然に、県を跨いで叔父さんの家の近くまでやって来たというわけだ。


 陸の事はやっぱり気になるけど、まず私が壊れてしまってはどうしようもないし、私という『失敗作』を作ってしまったからには、あの両親でも流石に少しは上手くやるだろう。

 自分の事もままならないのに、陸を守ろうとしていたこれまでの私が傲慢だったのだ。

 それに、もし陸があの家から逃げ出したくなった時に、私がダメになっていたら誰も助けてくれないだろうしね。


 私はこれから自分の力で、時々誰かに力を借りながら、頑張って生きていこうと思う。


 もう一人の私に誓った『強く生きる』という事の意味を、私は正直まだ見つけられていない。

 それは、あの両親の元で我慢して暮らす事なのか、自分を大切にする事なのか、将来的な幸せを目指して努力をする事なのか、何が正解なのかはわからない。


 でも、とにかく私はがむしゃらに生きてみようと思う。

 幸福よりも辛い事や苦しい事の方が圧倒的に多いこの世界で、私なりに頑張って生きてみようと思う。


 そんな事を思い返していると、遠くの方から大きなワゴン車が走ってくるのが見えた。

 ワゴン車の運転席では、叔父さんがこちらに向かって手を振っている。


 私は叔父さんに手を振り返すと、ベンチから立ち上がり、空を見上げた。


 するとそこには、私の門出を祝福するかのような雲一つない青空が広がっていた。


 青空が美しいのは当たり前。

 だけど、長い人生の中でそう思う機会は意外と少ないのではないかと私は思う。


 普通に生きていると、目に入ってくる情報が多すぎて、空を見上げる暇がない。

 何か悩み事や悲しい事があると、空を見ても美しいと認識する事ができない。


 だから、青空が美しいと思えたら、それはきっと良い事なのだ。

 そう思える事は、きっと幸運な事なのだ。



 私は今、青空を美しいと思っている。




『天空マンション』〜完〜

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