天空マンション
てるま@五分で読書発売中
空飛ぶマンション
第1話 プロローグ
ほんの少しだけ冷たい風が、開け放したままの窓から入り込み、レースのカーテンと私の肌を撫でる。
風は肌を照らす温かな陽光と混ざり合い、化学反応を起こすかのように私の体から心地良さを呼び覚ます。
読んでいた文庫本から窓の外に視線を移すと、そこには果てしない青空のキャンバスが広がっており、キャンバスの所々には薄い乳白色の雲が染みを作っていた。
青空が美しいのは当たり前。
だけど、長い人生の中でそう思う機会は意外と少ないのではないかと私は思う。
人は晴れている時は空を見ない。
太陽が眩しいから。
もしくは交通事故に遭わないように前を見ているから。
道路に引かれた白線を踏み越えないように、下を見ているから。
他には何を見ているだろう。
信号機、派手な色の看板、正面から歩いてくる人、腕時計、スマートフォンの画面。
見るものが多過ぎて、空を見ている暇がない。
たまに空を見る時は今にも雨が降り出しそうな時か、ポツポツと雨が降り出してからだ。
たまたま青空が視界に入っても、何か考え事や悩み事があると綺麗であると思う事ができない。
だから、人生の中で青空を綺麗だと思う機会は意外と少ない。
そう思える事は、きっと思っている以上に良い事なのだ。
そう思えたら、きっとそれは幸運な事なんだ。
ここに来てから私は毎日空を見ている。
一日に何度も空を見上げ、青空の美しさにため息をついている。
だから、今の私はきっと良い状態にあるのだろう。
何が良いのかは具体的にはわからないけど、きっと何かが良い状態なのだ。
文庫本を閉じた私は小さく伸びをしてからベッドの上に膝立ちになり、窓枠に手をついて身を乗り出すように下を見る。
遥か——恐らく数千メートル下方には、いつかテレビで見た南国のようなブルーハワイの海が広がっていて、私と海の間には大小様々な大きさの島がバラバラのジグソーパズルのピースように無数に散らばって浮いている。
島が空に浮いているなんておかしいと思うだろうけど、ここではそれが普通だ。全然普通じゃないこの光景が、この場所では普通なのだ。
そして私は、そんな浮島の一つに建っているマンションの一室にいる。
マンションといっても、古い団地の一棟に近いオンボロマンションだ。
私はこのマンションを、『天空マンション』と呼んでいる。
外の風景を見ていた私はベッドから立ち上がり、ソファーの上に放り出していた大きめの肩掛け鞄を手に取り、肩に掛けた。そしてスニーカーを履いて玄関を出ると、同じ形のドアが並ぶ廊下を歩き、廊下の中央にあるエレベーターで一階まで下りる。
一階には狭いエントランスがあり、その先には数台の車が止まっている駐車場、更にその先にはマンションの敷地の出入り口である正門がある。更にその先は断崖になっており、本来ならあるべき道がない。
この断崖はマンションとその周辺をぐるりと囲んでおり、それはこの島が他の島とは繋がっていない事を示している。
断崖に立って下を見ると、この島の下に潜っていた浮島がちょうど顔を出すところであった。この空飛ぶ島群の島々は、ゆっくりとではあるが少しずつ動いているのだ。因みに動く速さは島によって少しずつ違う。
下の島までの高さは、この島の厚さを含めて大体五十メートルくらいはあるだろうか。
本来であれば、あの島に行くためにはハングライダーか長い階段が必要な高さである。そしてそれは落ちれば命がない高さだ。
しかし、私は大きく息を吸い、アスファルトの地面を蹴って島の端から軽く跳んだ。
脚力によって一瞬だけ地面から上昇した私の体は、すぐに重力に捕まり自由落下を始める。側から見れば飛び降り自殺の現場にしか見えなかっただろう。でもこれは自殺なんかじゃない。この行為は私にとって、ただ歩みを進めただけだ。
落下によって足下から吹き上げてくる風と空気抵抗が、肩上までしかない私の髪を激しくなびかせ、服をはためかせる。
細めのデニムの裾とシャツの袖から入り込み、全身を吹き抜けてゆく風によって、自らが空に溶けてゆくかのような錯覚を覚えながら、私はここに来た日の事を思い出す。
あの日の空も、今日と同じように晴れ渡る青空だった。
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