第13話
スチール缶越しに伝わる熱を掌に感じながら、朝焼けの中で口にする甘い缶コーヒーは、体内に溶けてゆく熱と糖分により、まだ完全には目覚めていない私の体と脳に薪をくべてくれる。
無料の自動販売機がそこかしこにあるこの世界で旅をする私の一日の始まりは、もっぱら甘い缶コーヒーで始まる。メーカーや銘柄にこだわりはないけれど、結構味に違いがあるという事が最近わかってきた。
私が旅を始めてから数日が過ぎた。
朝起きて食事をし、時折休憩をしながら島群を探索をする。そして夕方になればその日の寝床を探し、決まればまた食事をする。それから可能であれば入浴をして、少しだけ本を読んでから眠りにつくだけの日々。
この旅は、『どういう形であるかはわからないけれど、とにかく何かを探し求める』という、あてのない子供の冒険ごっこのようであり、かっこよくいえば遥か昔に新天地を追い求めた開拓者達が行っていたような果てしない探索の旅だ。
旅の中で、寝床や食事に関して困る事はなかった。
寝床に関しては、浮島の多くには一軒家やアパート等の家屋が建っていたし、それらの中には大体清潔なベッドや布団があった。
自分がいる島に家屋がなくても、島をいくつか渡ればすぐに見つかったし、なんなら会社や工場や公共施設等の人が出入りする建物の中には応接室や休憩室があり、その中の多くには小柄な私が余裕で横になれるようなソファーが置かれていたので、寝床探しに困るどころか逆にどこで寝ようか迷うくらいだった。
因みに一番寝心地が良かったのは高級寝具店のショールームで、最高級の低反発枕とマットレスと羽毛布団の組み合わせで寝た時は、もう二度と目覚めなくても良いとすら思える程に幸せだった。
食事に関しては、殆どは探索の途中で立ち寄ったコンビニやスーパーで手に入れた弁当やお惣菜で済ませた。時にはマンションにいた頃と同じように、住宅の台所を拝借して料理を作る事もあった。
本来であれば探索の旅の食事というと、ただカロリーを摂取するだけの携行食を食べ、時には野草や狩りで得た動物の肉を食らい、川の水や夜露を集めて喉を潤すイメージがあるけれど、私の場合はもちろん違う。そこそこのスーパーがあれば和牛やマグロだって食べ放題なのだ。
ただ、一度黒毛和牛を入れたカレーを焦がしてしまった時はちょっと凹んだりもした。
しかしながら、肝心なのは食や寝床の充実ではなく、探索の方だ。
私が一日に探索する島の数は、少なくて三島から多くて七島くらいだ。島の大きさや建物の数、高低差や入り組み具合によって、調べるのに掛かる時間に大きな差が出た。
何をどう調べれば脱出の手掛かりが見つかるかはわからないけれど、建物や何かありそうな場所には積極的に足を踏み入れるように心がけているので、一つの島を調べるのにも結構時間が掛かる。
そして成果の方は————
まぁ、私がまだこの世界にいるという時点でお察しである。
そういえば、旅を始めてから今更ながら気付いた事がある。
この場所が上空何千メートルにあるのか私が知る由はないけれど、こんな高度にいれば本来は凍えるほどの寒さと風が私を襲っていなければおかしいはずなのに、私はこの世界に来てから明確に寒さを感じた事はない。おかげで冷暖房の無い場所でも、比較的穏やかに眠る事ができた。
それはきっと、これまで私がこの世界で享受してきた数々の都合の良い事の内の一つに含まれるのだろう。
それから、多分だけれどこの世界では日付けが経過していないのではないかと思う。
なぜかといえば、私がこの世界を訪れた九月二十日から今日まで日照時間や気温にほぼ違いがないからだ。毎日太陽が昇り、沈んでいるにも関わらずだ。食べ物の鮮度が落ちないのも、何かこの事に関係があるのかもしれない。
ただ、ループものの小説のように一日が繰り返されているのかと問われたら、それは違うと思う。
私の髪はこの世界に来た時よりも少しだけ伸びているので、少なくとも私の肉体の時間は経過しているはずだ。それに、靴が擦り減ったり服がほつれたりしたら翌日もそのままだし、スマートフォンの画面はちゃんと日付けを刻んでいる。
もしかしたら私が元いた世界から持ち込まれたものや、私が身に付けているもの、私が接したものだけは時間が経過してゆくのかもしれないし、ここが地球ではなくて自転や公転がうんたらかんたらで日照時間に影響がないのかもしれないけれど、それでは色々と説明がつかないし、それを確かめる術はない。
終わらない秋口の中で私は日々を過ごし、旅を続けているのだ。
この旅はどこか義務的で単調な旅ではあったけれど、肉体的にも精神的にもそんなに辛い旅ではなかった。むしろ楽しいとすら思えたし、精神的には天空マンションにいた頃よりも充実していたような気がする。
それはきっと、この世界からの脱出という明確な目標を掲げた事と、島によって違う様々な風景が見られるおかげではないだろうか。
帰るべき場所を捨てた事により、私の目に映るこの不思議な天空の世界は大きく姿を変えた。
毎日違う場所で朝日が昇るのを拝み、朝とは違う場所で夕日が沈んでゆくのを見守るという日々は、正しく一期一会の日々であり、過ぎてゆく一日一日が、同じものに二度とは巡り会えないだろうその景色が、とても尊く儚いものに思えた。
そして、ふとした時に何気なく見上げる空も、時と場所によってまた違って見えた。
ある時は古びた木造の駅のホームで、晴れ渡る青空を見た。
ある時は自動車修理工場の屋根から、茜色に染まる空を見た。
ある時は田んぼの畦道で、満天の星空を見た。
ある時は雑居ビルの窓から、徐々に白んでゆく空を見た。
どの空も美しく、それらはこれまで役に立たなかった私のスマートフォンに、空の記録係としての役割を与えてくれた。
ただ、そんな一見充実している旅の中でも、私の中で例の感情は常に燻り続けていた。
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