第36話

 視界には一面に広がる絵に描いたような青空、そして戯れるように浮く雲。

 飽きる事のない、ため息が出るような景色を前にして、私は目を閉じて陽光を全身に受け止める。

 こうしていると、まるで自分が植物の葉になって光合成をしているかのような気分になる。


 私と鈴木君が天空マンションに戻ってから二週間が過ぎた。


 私は今、鈴木君が押す車椅子に腰掛け、マンションの駐車場で日光浴をしている。

 この車椅子は鈴木君が介護用品店から手に入れてきたものだ。


「暑くないか?」

 背後から聞こえる鈴木君の声に、私は「大丈夫だよ」と返し、再び目を閉じた。


 あの日、天空マンションに戻ってからも、私の左手と両足の感覚はすぐには回復しなかった。

 でも、時間の経過と共に感覚は確実に戻ってきているし、透けていた肌の色も徐々に元に戻ってきている。

 最近では指先をピクピクとなら動かせるようにもなってきたが、物を掴んだり歩けるようになるにはまだ時間がかかりそうだ。


 鈴木君はあれからもずっと私の世話を続けてくれている。

 マンションに帰って来てから、鈴木君は私の世話をするために119号室のキッチンに簡易ベッドを運び込んで寝泊まりをするようになり、必要な物を買い出しに行く時以外はずっと側にいてくれる。

 そしてご飯や移動の手伝いだけでなく、掃除や洗濯もやってくれるのだ。


 私はまるで介護をされているみたいで、いつも申し訳なく思うと同時に、感謝もしている。

 いや、介護されているみたいと言ったが、実際介護されているのか。


 初めは下着を洗って貰ったりするのが恥ずかしかったけど、最近はすっかり慣れてしまった。


 でも、流石にまだお風呂に入れてもらうのには抵抗があるので、入浴は自分で濡れタオルとボディシートで拭けるところを拭き、鈴木君には背中を拭いてもらうだけに留めてある。それでも十分に恥ずかしいけれど。

 以前鈴木君に汗臭くないかを聞いた時、クンクンと首の匂いを嗅いできたので、思わず肘鉄を喰らわせてしまった。


 髪はお風呂場で鈴木君に洗って貰うのだが、初めはガシガシと洗って私に悲鳴をあげさせていたのが、今では美容師さんのように上手になった。

 着替えやトイレは……まぁ右手が動くので、時間はかかるがなんとかなっている。


 それから、鈴木君は自分で料理も作るようになった。

 鈴木君は料理をする事自体はそんなに苦手ではないらしく、簡単な炒め物や汁物はすぐに作れるようになった。

 やたら具材が大きかったり、野菜がちゃんと切れていなかったりする事もあるが、味は中々美味しいのだ。


 一方私はというと、毎日読書をしたり、DVDを見たり、空を眺めたり、手足のリハビリをしたり、たまに洗濯物を畳んだり、正直ほぼニートのような生活をしている。

 でも、鈴木君は何も文句を言ったりしないので、それが余計に申し訳なかったりする。


 色々不便ではあるし、鈴木君に申し訳なく思う事も多いけれど、この二週間はとても穏やかで、幸せな日々だった。

 一緒にいたい人と一緒にいるという事が、こんなにも幸せな事なのだと私は知らなかった。


「ねぇ」

 私は空を眺めたまま、鈴木君に語りかける。

 背後にいる鈴木君が私に視線を向けるのを感じた。


「ずっと、このままでいるのもいいかもね」

 私は冗談のつもりでそう言った。

 鈴木君が「いつまで介護させるつもりだよ!」と言うと思ったのだ。

 本当にずっとこのままでもいいかもしれないと思わない事もないけれど、それではあまりにも鈴木君に申し訳ないから、これはあくまで冗談なのだ。


 でも、鈴木君は静かに「そうかもな」と言っただけだった。


 私はなぜかそれがどうしようもなく嬉しくて……嬉しかった。


 穏やかな沈黙が流れ、私は背後を振り返る。

 すると鈴木君がそっぽを向いたので、私は車椅子の持ち手を握る鈴木君の手に右手で触れた。


 鈴木君は一瞬ビクリとして、再び私を見る。

 そして躊躇いながらも、私の手を握り返してきた。


 鈴木君の手は温かくて、すべすべしていて、でも少し筋張っていて、ちゃんと男の子の手をしていた。


 私は鈴木君の目を見つめ、握った手を軽く自分の方へと引く。

 それがどういう感情からくる行動なのかを、私は理解していた。


 鈴木君は私の行動の意味を察したのか、じっと私の目を見つめ返し、ゆっくりと身を屈めた。


 目を細めた私の唇に鈴木君の唇が触れ、離れる。


 私が目を閉じると、もう一度。


 目を開けると、更にもう一度。


 三度の口付けの後に、私達はまた見つめ合う。


 言葉は出てこずに、ただ呆れる程の幸福感が、胸の奥から吐息と共に溢れた。

 晴れ渡る青空の下で、私はなぜか泣きたくなるほどに幸せだった。


「……お前のせいだからな」

 そう言った鈴木君の顔は、いつもの少し不貞腐れたような顔に戻っていた。


「何が?」

 私が問い返すと、鈴木君はそっぽを向いて答える。


「俺は、ずっと一人でもいいと思ってたんだ。人に気を使うのとか面倒臭いし……。でも雨宮と出会って、一緒にいて、一人になるのが嫌になっちまった。だから、責任取れよな」

「責任?」

「せ、責任は責任だろ。これからも一緒にいるとか……」


 数秒気付くのが遅れてしまったが、それは笑ってしまいたくなる程に不器用な告白だった。

 私は今にも溢れ出しそうな涙と笑みを噛み締め、大きく頷く。


「うん……ずっと一緒にいる。この世界に残っても、元の世界に戻っても、ずっと鈴木君と一緒にいるよ」


 再び沈黙が訪れ、鈴木君は私に小さく微笑みかける。

 そして空を見上げた。


「なぁ、帰るか。元の世界に」


 鈴木君がそう呟いた次の瞬間、遥か遠くに光の柱が昇った。

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