第4話

 エントランスに置かれたベンチで飲み物を飲みながら、私は自分の置かれている状況を整理……したいけれども、わからない事だらけで整理のしようがない。


 マンションの屋上で目を覚ます前の記憶を先程から何度も思い出そうとしているが、私の記憶は昨日学校を出たところで途切れている。


 スマートフォンの表示を見ると、日付は九月十九日で、時刻は十五時を過ぎたところだ。昨日学校を出てから丸一日近くが過ぎている。普通に考えれば、私はその間に何者かによってここに連れて来られたのだろう。まさか自分の足でここにやってきたという事はあるまい。


 誰が何のために私をここに連れて来たのかは、考えてもさっぱりわからない。わからない事は考えても仕方ない。


 とにかく、私は家に帰りたい。

 で、あるならば、重要なのはここがどこかという事だ。

 現在地がわからなければ帰りようがない。


 これもまたわからない。

 わかるはずもない。

 本来なら住所や番地が書いてあるはずの電信柱や自動販売機にも、この場所の住所を示す情報は何も書かれていなかった。

 因みにマンションの入り口に書かれていたマンションの名前は『スカイマンション』。悪いジョークだろうか。


 しかしまぁ、現在地がわからなくても、ここがただの見知らぬ無人のマンションというだけであれば、駅やバス停まで歩こうとか、交番を探そうとか思えるだろう。だけど、とんでもない事にここは空に浮いているのだ。

 これでは現在地がわかっても帰りようがないし、帰る気力も失せる。通り掛かりのセスナ機でもヒッチハイクしろというのだろうか。


『やぁ、お嬢ちゃん、よかったら乗っていくかい?』

『マチュピチュまでお願いします。できればナスカの地上絵の上を通ってください』

『いいけど、お嬢ちゃんまさか家出じゃないだろうね?』

 ご機嫌なヒッチハイクだ。


 スマートフォンの地図アプリを開いても、電波が無いせいか現在地は表示されない。

 周囲で目にする文字は日本語ばかりだし、駐車場に止まっている車のハンドルも右ハンドルばかりなので、多分ここは日本なのだろう。


 しかし、私の常識では日本どころか世界中探しても空飛ぶマンションなど存在するはずがないのだ。大体島が空に浮いていたらテレビに出ないはずがないし、郵便屋さんが大変だろう。


「はぁ……」

 私は深く息を吐き、マンションの入り口であるガラス戸の向こうに見える青空を見上げる。

 本来であればパニックになるべき状況でも割と落ち着いていられるのは、この青空のおかげだろうか。


 綺麗だ。

 そして心地良い。

 青空というのは、ただ広いキャンパスに青が広がっているだけなのに、なぜこうも美しく思えるのだろう。


 小学生の時、校外学習で美術館の見学に行った事がある。

 その時美術館には、たまたま海外の有名な画家が描いた何億円もの価値があるらしい絵が展示されていて、学芸員の人がその絵について色々と難しい解説をしてくれた。でも、その絵の凄さは私には少しもわからなかった。


 ただ晴れた日に空を見上げるだけ。

 それだけで、人は心を満たす事ができる。


 青空は、お金持ちでも貧乏でも知識があっても無くても誰でも鑑賞する事ができて、その素晴らしさを感じられる最高の絵なのかもしれない。

 青空がそこにあれば、私には高価な絵は必要ないのだ。


 まぁ、私にただ美術の知識と理解がないだけなんだけどね。


 現実逃避がてらにそんなポエミーな事を思いつつも、私自身も空の美しさを随分と長い間忘れていたような気がする。そこにある事があまりにも当たり前過ぎて。


 いつからだろうか、空よりもスマートフォンの画面を見ている時間が長くなったのは。

 小さい頃はよく空を見ていたような気がする。

 休日や運動会の日は、朝に目を覚まして空が青ければ嬉しかった。

 いや、青空でなくても空は私に様々な感情を与えてくれた。

 例えば、雨の日はお気に入りの雨傘を使うのが楽しみだった。公園で遊んでいて、日が暮れて空が茜色に染まり始めると、家に帰らなければならないのが寂しかった。

 空は自分の一部であり、友人のような存在だったと思う。

 それがいつの間にか、空は私にとってただの環境の一部になってしまっていた。


 そんな事を考えていると、なんだか少しだけウルっときてしまった。

 ダメだダメだ、現実逃避が過ぎる。

 今は幼少時代に想いを馳せながら一人ピクニックをしてる場合ではないのだ。


 この島からの脱出を再開するために、私は意を決して立ち上がる。

 するとその時、私の中で一つの感覚が芽生えた。


 まずい。

 私は一度マンション島からの脱出の事を忘れて、エントランス周辺を歩き回る。

 しかし、目的のものは見つからない。


 この場所に連れて来られたという事は私にとって迷惑であり、ここから帰れないという事は私にとって困った事態である。だが、それらは全て明確なピンチではなかった。


 予習をしていない時に限って授業中に先生に指名された時とか、弁当を食べようとした時にお箸が入ってなかった時とか、通学途中で不良に絡まれた時とか、そういう急を要するピンチではなかったのだ。


 しかし今、私は間違いなくピンチに陥っている。

 きっと遅かれ早かれ私はこのピンチと巡り合っていただろう。

 いずれ必ず訪れる死と同じで、生きている限り人はそれから逃れる事はできないのだから。


 つまり私は、トイレに行きたいのだ。


 せっかく自販機から出てきたものを飲まないのはもったいないと考え、ジュースだけでなく缶コーヒーまで飲み干した貧乏根性がまずかった。


 トイレ、トイレ……。

 探索範囲を広げてみるも、やはりトイレは見当たらない。

 さっき島を一周した時も、トイレらしきものは見当たらなかった。

 普通の近代的なマンションであれば、エントランスに来客用のトイレの一つくらいはあるはずなのに、このボロマンションにはそんな気の利いたものは設置されていない。


 二十分ほどマンションの周辺を彷徨っただろうか。

 私は決断をせねばならない時がいよいよ迫ってきていた。


 ここが森の奥深くであれば、草むらで用を足す事も考えただろう。

 でも、ここは無人とはいえマンションだ。

 決して誰にも見られないとしても、こんな近代的な建物の周辺で用を足すのは絶対に嫌だ。

 それに、万が一人に見られたら、私はこの島で人に出会えた喜びを感じる前に羞恥心の大きさに押し潰され、島の端から海へとダイブするだろう。幸いこの島は飛び降り自殺には最適である。でもそんな事は絶対にしたくない。


 で、あれば、残された手段は一つだ。

 正直気が引けるが、背に腹は変えられない。

 ピンチは時として人に大胆さと行動力を与えるのだ。


 私はマンション内に戻り一階にあるドアの一つを開くと中に向かって声をかけて、誰も出てこない事を確認してから靴を脱いで上がり込む。


 玄関周りの様子を見る限り女性が一人で暮らしているであろうその部屋には、やはり人の気配はない。


 家主の留守中に申し訳ないとは思ったが、私は玄関脇にあったトイレに駆け込み、無事にピンチを切り抜ける事ができた。

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