第56話 健人執事を辞める決意をする

「茜さん、僕はもう執事をやめる!」


 茜さんは、茫然として僕の顔を見つめた。


「そ、それ、どういうこと?」

「もう、これ以上こんな生活には耐えられない」

「ひ、酷いわよ……私を突き放すつもりなの?」

「そうじゃない。僕はもう、秘密を抱えて二重生活をすることに、うんざりしたんだ!」


―――ああ、こんな言い方をするつもりはなかったのに。


―――茜さんの気持ちに振り回され、それでも好きな気持ちを心に抱えながら彼女を守り続けることが、心底苦しくなってきた。


―――茜さんが、本気で自分の事を相手にしているとも思えない。


―――執事がお嬢様に恋をするって、報われるはずがないじゃないか。


―――そんな疑念がどんどん大きくなっていく。


「それじゃあ、僕はもういくよ!」

「ああ、待って! 健人!」


 茜さんは、あっけに取られているが、僕はもう振り返らなかった。彼女の甘えたような表情を見ると、決心が鈍ってしまう。


 健人は一目散に、歩き始めた。茜はがっくりして健人の後姿を見送った。


―――どうして、こううまくいかないんだろう。


―――私っていつもそう。


―――何かをしようと思った時も、いつも心のどこかに鍵をかけて、自分の気持ちを偽ってしまう。


―――余裕のあるふりをしてしまう。


 そう思うと、目からは大粒の涙が溢れだした。しかし、健人の姿はもうなかった。


―――健人……私あなたの事、本当に信じていたのよ!


―――これから先もずっと、執事であり、私の彼氏だって信じていた……。


―――それなのに……私は、忠実な執事と彼氏の両方を失ってしまった。




 健人は、夜遅くなってから茜の家へ行った。遅くならないと、父が帰ってこないからだ。そして茜に会わずに、父の部屋へ行った。


「旦那様、お話があります」

「おお、健人君じゃないか。畏まって、何だい? 茜とは仲良くやっているかい?」

「僕、ここで執事として働くのをやめようと思います!」

「それは突然、どういうことかな。勉強が忙しくなってきたのかい、それとも何か他に理由があるのか? 何でも話してみてくれ」


 茜の父は、じっと健人の目を見ていた。その眼は真剣そのものだった。


「僕は、この仕事を続けていく自信が無くなってしまったんです」

「どうしたのかな、君らしくない」

「僕らしく……ないですか」

「ああ、いつも君は仕事をそつなくこなしていたし、何よりも茜を大切にしてくれた。あの子の気持ちをよくわかって、接してくれていた」

「はい、茜さんの事は大切に思っています」

「だけど?」


 健人は、決心していった。


「だけど、もうこれ以上、彼女に振り回されたくない」


 再び彼は、健人の目をじっと見つめた。その眼は、慈愛に満ちていた。


「いつもあの娘には、子供の頃から、レディーとして振る舞うよう多くの事を要求してきた。時としてそれは、あの娘に窮屈な思いをさせ、そのせいで自分の気持ちを素直に表せなくなっていた。しかし、君が来てから、あの娘は変わった」

「……え、そうだったのですか?」

「いつしか、自然に自分の気持ちを表せるようになっていたんだ。私の知らないうちにな。そして、君が帰ると君とのことを思い出しては、いつも楽しそうに私に報告した。私は、君が来てくれたことを心から喜んでいたんだ」

「……ぼ、僕は、そんな立派な間じゃありません」


 健人は卑屈になっていた。自分は取るに足らない人間だ、茜さんとは全く釣り合わないと。


「僕なんか、茜さんとは、友達になることもできないんです」

「茜は、君の事を友達以上の人だと思っているよ」

「そ、そんなことは」

「ないと思ってるのか。茜には黙っていて欲しいんだが、あの子は君の事が大好きなんだ。だけど、自分がお嬢様だと思う気持ちが邪魔をして、素直にそれを出すことができない」

「そうでしょうか?」

「ああ、もう一度考え直してみてはくれないか?」


―――旦那様が、ここまで言うんだ。


―――彼の言葉を信じてみようか。


―――彼女の不器用な気持ちを、再び優しく見守ってあげようか。


 しかし、それが辛くてやめると言いに来たんじゃなかったのか。


「分かりました。だけど、これからはもう僕は彼女と対等な気持ちで接することにします。そうじゃないと、そうじゃないと……」

「ああ、もちろん君と茜は対等だよ。宋じゃないと、君はつらくなってしまうだろうからな」

「はい!」


―――僕は結局、茜さんのお父さんに説得されて、執事の仕事を辞めることが出来なかった。


 健人は茜の部屋へ入った。


「茜さん!」


 彼女は、今にも泣きだしそうな寂しそうな顔をしていた。


「健人……辞めちゃうんでしょう?」

「茜さんはどうして欲しいの?」


 健人は意地悪な質問をしてみた。


「あたしは、別に、どうでも……」

「僕にいて欲しい、それとも来なくてもいいの?」

「そ、それは。どちらかというと、来て欲しいかなあ……」

「じゃあ、分かったよ」


 健人は、茜の傍へ行きそっと体を抱きしめた。茜は、フ~ッと安堵の溜息をついてた。彼女の瞳に笑顔が戻った。


「辞めないことにするよ! だって、こんないいバイトはないからね。おしゃべりをして、美味しいものを食べて、お金がもらえるんだから」


 健人も強がっていった。


「そうだよねえ!」


 彼女は、飛び切りの笑顔を見せた。彼女の不安は、一気に吹き飛んだ。


「だけど、これからは、ただの執事じゃないからね。執事兼、彼氏兼、茜さんのナイトになるから」

「一つ増えたのね。じゃあ、これからもよろしくね」


 やっぱり、僕は茜さんの傍を離れるなんて無理なんだ。彼女のお父さんに説得されて、内心ほっとしていた。

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