第12話 学園の姫と壁ドンの練習をする

 始めは茜に頼まれて成り行きでなった彼氏だったが、次第にその生活はとても充実してきて元の生活に戻したくない、と思い始めていた。茜さんは命令しているつもりなのだが、健人にとってはちっとも辛い命令ではなく、振り回されるのが楽しくてしかたがない。


 夕食後の食器の後片付けをし、床をモップで掃除し終えると、茜さんが部屋へ来るように言った。部屋へ入るのは二度目だ。


―――また何か仕事があるのだろうか。


「何かお手伝いすることがあるの?」

「まあ、仲へ入ってお喋りしよう」

「それじゃあ、少しだけ」

「遠慮しないでね」


 ソファに座ってお喋りをしていたのだが、突然彼女が突飛なことを言い出した。


「壁ドンとやらをやってもらいたいの」


―――呼ばれたのはこれが目的だったのか。


「壁ドン? 懐かしい響きだね。この前僕がやられたけど」

「今度は健人にやってもらいたいな」

「今でも流行っているのかな」

「流行ってなくても、凄いインパクトがあるわ」


 これも命令のようだが、健人は驚いた。


―――どんな理由で、何のためにやるのだろうか。


「茜さん、いつどこでやるの? それから何のために?」

「ドラマで見たことがあって、かっこいいなと思って。どんな気分なんだろうと思って。ここで二人だけでやっても仕方がないから、学校で皆が見ているところでやってほしいの」

「取り巻き連中に見せつけるつもりなの。彼らをもっと刺激してしまうよ」

「そうかもしれないけど……別にいいじゃない」

「いいのかな……」


―――茜さんは、誰かに見せたいのだろうか。


―――見ている人がいた方が盛り上がるということか。


 しかし連中が後で俺に食って掛かってくるのは明白だ。どんな台詞を言ってやったらいいか、考えてみる。すぐには思いつかない。


「ここで練習してみようか」

「そうね。練習してみないと、学校でうまくできるかわからないからものね」

「それでは、茜さん。覚悟はいいかな」

「いいわよ。やってみましょう」

「茜さん、壁の傍に立ってください」


 ジャージ姿の茜さんは、壁の傍に立ち健人の方を向いた。何か台詞が必要だが、先ずは台詞なしでやってみる。


「まずは形だけでやってみるから」

「おお~~~、ドキドキするわね。お手柔らかにね」

「分かってるって」


 健人は至近距離まで接近し右腕を延ばしおもむろに彼女の顔の後ろに手を着いた。


―――ドンッ!


 と音はしなかったが、そんな気持ちを込めて手を伸ばした。


―――茜さんは一瞬目を閉じた。


「目を閉じないでね」

「ああ、そうね」


 すぐ目を開けて、目をぱちくりして驚いた。あまりに顔が至近距離にあるものだから焦っているのだ。

 

 この体勢でいると顔が近いのは仕方がない。そんな茜さんの焦った顔を見ていると、こちらも照れてしまう。


「近い!」

「ダメかな? 学校でやるのは止めておく?」

「いやいやいや、止めないでいいわ」

「そう」


 健人はふ~っと息を吐き、手を元の位置に戻した。


「これが壁ドンというものなのね。結構ドキドキするわ」

「そうだね、僕も初めてやったけど、茜さんの顔が近くて焦ったよ。この前僕が茜さんにやられた時もかなり焦った」

「私も男子にやられたのは初めて」


―――そうか、茜さんも初めてなのか。


―――俺も女子とこれ程の至近距離で話をすること自体初めての経験だ。


「そうなの。私はあの時は話したいことがあったから、それに気を取られていて何も考えてなかった」

「茜さん気分悪くなかった。僕に壁ドンされて」

「いいえ、別に」

「そうなの、じゃあよかった」

「健人、次は台詞を入れてやってみて。もっと盛り上がるかもしれないでしょう」

「台詞というと……」

「何か、言葉を言ってからやってみて」

「う~ん。悩むなあ」


 健人はじっと考え込んだ。作ったようなセリフじゃ盛り上がらないだろうし、きざなセリフは自分の性に合わない。


―――ここは、自分の素直な気持ちをぶつけてみようか。


 健人は茜の顔をじっと見つめ、真剣なまなざしで訊いてみた。


「茜さん。僕が執事を辞めたらどうしますか。彼氏をやめろって言いますか?」

「そんな質問しないで~。執事見習いはやめないでよ!」

「それが茜さんの本心だったら、僕はずっとやめませんよ」


―――ドンっ!

 

 と、健人は壁に手を着いた。


 茜さんの目はキラキラ光っていた。まるで本当に壁ドンをしたような気分だった。今のセリフに感激したせいだろう、と健人は勝手に思っていた。


「わあああ~~~、今の壁ドンは凄かった。真に迫っていたし、本物らしかったあ。健人の心がこもっていたからね」

「茜さんは恋する乙女の様でした」

「うふふ、健人って意外とロマンチックなのね。イメージが変わったわ」


 それは嬉しいが、僕のイメージというと根暗でオタク、女子とは無関係と相場が決まってたからか。まあ自分でもそう思っていたからね。リアルに壁ドンをすることになるとは、自分自身でも驚きだ。


「これが練習なの?」

「一応そうだけど、とっても胸がときめいたわ」

「じゃあ、明日学校でこれをやってみるね。せりふはアドリブになってしまうと思うけど、驚かないで」

「その方が、楽しみが出来ていいわ。どんなことを言ってくれるか今からわくわくする」

「あんまり期待しすぎないで」


―――壁ドンの練習だけで、こんなにどきどきして幸せな気分になった。


―――これがアルバイトだなんて、この先どうしよう。


―――わくわくが止まらなくなってしまう! 


 健人はあれでよかったのかな、と帰り道で考えた。興味だけでやってみた執事の見習いの仕事だったが、今はずっと続けたい。今までの生活が白黒の世界だとすると、今の世界は色のついた世界のようだからだ。

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