第37話 ヤンデレとの共同生活の幕開け
「あう」
智音が妙な声を発する気持ちも分かる。バスで20数駅も乗ったのは俺も初めてだ。まさに分け入っても分け入っても青い山である。幸い、俺は車酔いには強い方なのだが、真横に居る智音はそうではないようだ。麻衣は前の席で眠り、その横の椎名は音楽を聴いて一人の世界に。トンネルを抜けるとそこはまたもや山であった。あう。
「涼しいね!」
水を得た魚の如く温泉街を駆け抜ける智音。
「守くん~」
寝起きの麻衣はヨロヨロと俺にもたれ掛かる。女子は一般的に軽いものだが、長時間座り続けた俺には軽い労働。そのせいで「人」という字を描いてしまっている。
そして今日もまた複雑な表情の椎名。もはやこれがスタンダードなのかもしれないけどな。それか海派。
田舎の初夏を描く作品には美しいBGMが付き物だが、今日も今日とて女子の声。それを羨ましく思う男性陣が圧倒的多数だろうが。情緒ある一人旅か、青春の1ページになるかもしれない学生旅行か。俺は一人か家族かとしか旅行経験がないので、今回の合宿は楽しみだったりする。
「……ここです」
椎名が予約したという温泉宿はなかなか趣があって、俺を含め、みんな思わず声が出た。旅館『
もちろんメイド喫茶ではないので、単純なロジカルシンキングによって、椎名の知り合いであることが分かる。なるほど「冬之里」ね……
「親戚の叔母さんが経営してて……」
「そうなんだ」
「でも、結構私のことに関しては口うるさくて。だから他人のフリでもしようかと思ってたんですけど、すぐにバレました」
「じゃあ、俺たちが大学生ってのは隠した方がいいのか?」
「ごめんなさい……」
無理にここにしなくても、と思ったがこの村社会ではそれも無意味だろうな。ここを選んだ智音は「ごめんね」と謝っているが、かえってそれが椎名の肩身を狭くしている。申し訳なさそうにしゅんとする女子高生。
一方、麻衣はそれほど重大に捉えていなさそうだ。むしろ俺は、麻衣が普通に大学生であることを明かしそうで怖いんだけどな。
「本日はよくおいでくださいました。いつも冬と仲良くしていただいてありがとうね。ゆっくりしていってください」
「はい!」
「ふふふ、元気ね」
智音、女子高生であって、女子中学生を演じる必要性はないぞ。麻衣は執拗にコクコクと頭を下げている。お前らやめたれ、椎名が恥ずかしそうだ。
さて少し時間は早いが俺たちは大浴場へと向かった。当たり前だが、この広い湯船にたった一人で入る。
お爺さんたちに混じって体を洗っている時、三人は楽しく過ごしてるんだろうな。いやこれ、不健全な妄想にも思われかねないな。
どうやら上がるのが早かったようで、夕食の用意が済んだ部屋には俺一人しか居なかった。客観的に見て、男1・女3は異常である事にはもう取り合うつもりは無く、一人和風情緒に浸っていた。
ふと執筆したくなり、ノートパソコンを起動する。流石は温泉旅館。文豪ムードは見せかけではないようだ。
「あっ、おまたせしました~」
「いい湯でした」
「お兄さん、小説書いてんの?」
聖徳太子が10人同時に会話したと言うが、凡人である俺は3人でも少し戸惑った。
「おう、なんだか文豪の気分を味わってたんだ」
「守くんカッコいい」
「率直に褒められても、これは恥ずかしいだけだから……」
カッコいいのではなく、カッコつけてただけだからだ。
「料理が美味しいって評判だから、一杯食べて」
隠すことなく椎名がそう言うのだから、本当に美味しいのだろう。
「ホントおいしかったよ!」
「えへへ、でしょ」
「美味」
高級コースは学生には辛いので、一番安いセットだが、それでも確かに満足できるものだった。次回はおそらく無いだろうけど、忘れることも無いだろうな。
「フッフッフッ、では守さん!お隣失礼しますね♥」
あみだくじの結果、智音が俺の隣で寝るそうだ。不安なのか緊張なのか。ともかく俺は寝る前にしっかりと浴衣の帯を締め直す事を忘れないようにしておこうと決心した。
麻衣が羨ましそうにこちらを見つめているので、智音だけに注意しておくと大変な目に遭いそうだな。
椎名は……分からんな。好意的だが、知らぬ間に合鍵まで作ってるくらいだから、もしかすると……
やっぱり別室料金をケチったのがそもそもの間違いだな。あう。
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