第8話 侵掠すること火の如く

 恍惚とした表情をこちらに向けられ、一つの対処法として用いたに過ぎなかったハグに大きな意味が後付けされてきている気がする。生唾をゴクリと喉の奥へと押し流し、気を落ち着かせる。

 甘い薫りは俺にまとわりつくかのように、あえて理性に訴えかける、「何をしているのだ」と。うなだれるように目線をそらしたのも束の間、俺への警報音はしっかりと音となって耳に届いた。残念ながら朱音にも。

「またあの女から!」

 最悪のタイミングで麻衣さんから返信がきた。

「あの女のことなんでブロックしてないんですか」

「そんな排他的な奴は小説をサイトに投稿したりしませんから」

「む~ で、なんて書いてあるんですか!?」


『わざわざ返信ありがとうございます。もちろんこれからも喜んで読ませていただきます(笑)

 先生は恋人はヤンデレじゃなきゃ嫌ですか?いきなり踏み込んだ内容かもです。機嫌を損なうことにならなければいいんですけど……』

 ここ数日来、朱音のストレートヤンデレばかりキャッチしていたので、こういう風な清楚な、模範的読者さんに出会えた喜びが、朱音が真横に居るにもかかわらず、表情筋の弛みとなって伝わってしまう。

「ずいぶんとうれしそうですね、お二人とも」

 何とも威圧的な笑みをなぜ俺は一身に受けねばならない?これは作家の職業規定から逸脱した闇営業では?ファン恐るべし。

「作家が読者が増えて喜ぶのは至極当然だと思うんですが」

「それで、どうなんですか?」

「えっ?」

「ヤンデレじゃなきゃダメなんですか?」

「どちらかと言えば苦手なんだが……」

「そうなの!?」

「ほえぇ~」とうろたえている細川キャプターあかねを無視して返信する。

『どちらかと言えば苦手かもしれませんw』

 ピロンと通知音が小さく聞こえた。俺のものではない。

「ご、ごめん!急用入ったみたい!」

「はぁ」

 騒がしい奴だな。乱すだけ乱しやがって。

「じゃあ、おやすみ♡」

 何となくおやすみと返すのが恥ずかしかった俺はドアが閉まってすぐに鍵をかけないというマナーでもって一応のお詫びとしておく。気づかないだろうが。

「もうあんまり話さないでね」

 それが裏目に出たようで、朱音はすぐさま引き返し、俺にこう忠告兼恐喝まがいの捨て台詞を放つ。今度はチェーンの鍵もかけておいた。

 かくてこの世に再び平和がもたらされたのであった。この状況に羨ましさなどみじんも無いだろう。未だ正体不明のヤンデレストーカー。こんなヒロインを寄こすなんて、俺の前世は貴族か将軍にでもお茶をぶっかけたのか?大罪人にはヤンデレを、反逆者にはストーカーを。そんな法典を思い浮かべなければならないほどの非日常。思考停止は睡眠の他になんの解決策も出してはくれない。

「おやすみ」

 虚空に残留する朱音に言霊を送る。一日の締めがこれ程までにキモいものになるなんて、数秒前でも予測できなかった……


 昨日の災難のせいで少し寝坊した。起こしてくれよケロちゃん。ぼっちである俺に少しでも惰性が芽生えた時、もはや堕落したのも同様に、その後しばらくの間、だらだらと贅沢に人生を浪費するのが通例だった。

 その周期に入ってしまったことに若干のイラ立ちを覚えつつも、もはや自律する音階そのものを失った俺はもう一度ベッドに横たわる。ノートを見せてくれる友達は皆無。今の俺が抱いてるのは虚無。ひたすら増えてく日常の責務。……ラップって難しいのな…………

 一つの進路が途絶えた丁度その時、ノートパソコンが俺を呼びかける。どうやら厳密にいえば朱音のようだが。

『今日、講義ありますよね?もしかして体調悪いんですか?だとしたら、それって私のせいですよね……本当にごめんなさい。昨日は疲れてたのに押しかけちゃって。今日はすぐ帰るんで、ご飯だけ作りに行ってもいいですか??』

 やけに良い子ちゃんになったな。あれか、昨日俺がヤンデレは苦手って言ったからか?だとすればこの問題に光明が差したと言えるな。

『ありがとう。ちょっと寝不足なだけだから、そんなに気を使わなくて大丈夫ですよ』

 ピンポーン

 早いって。半分寝ている身体に鞭打って、鍵を開けに行く。

「大丈夫……?」

 以前と違い、心配そうに上目遣いでこちらを見つめる。

「ありがとう。本当に大丈夫ですから」

「いいから寝てて待ってて」

 俺を押しのけて狭いキッチンへと向かう。実際ありがたい事ではあるのでここは素直に好意を受ける。

「まずはリンゴジュースでも飲んでてください」

 差し出されたコップに口を付ける。看病というより介護みたいなのが少し嫌だが、喜んで飲みほす。

「おやすみ♡」

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