第49話 決断の日々

 基本的に俺の日常には雑音を省くと二通りの音が絶えず鳴っている。曰く、キーボードの打鍵音と女子の話し声。

 これだけで判断すると、あたかもキラキラとしたオフィスを彷彿とさせるかもしれないが、今日只今こんにちただいまの現状はそういった世界とは全く異なるものだった。

 それはここ数ヶ月を過ごしてきた俺にさえも異様だった。椎名が来なくなり、そして今、麻衣はいきなりこう切り出した。


「守くん、私、イギリスに帰ることになったんだ」

「は?」

 旅行であっても驚くのに、麻衣はとはっきり言った。確かに色白さやメンタリティは日本人離れしているとは思っていたが、まさか本当に海外にルーツを持っていたとは。

「帰るって……」

「私、イギリスではあんまり友達がいなかったんだ」

 何もかもが唐突だが、それでも麻衣はいつもと変わらず淡々と語りだした。


「それでね、暇潰しにとでも思って、web小説を色々読んでたの。

 すると見つけたんだ、運命の小説に」

 運命の小説。とても嬉しい表現だが、実際問題、過大評価と言わざるを得ない。

「皆には秘密にしてた事が多いから、嫌われるかもだけど、まずは守くんに打ち明けるね」

 俺はただ、名探偵やマジシャンの種明かしを黙って聞く凡人のようにじっとしていた。

「私ね、絵の勉強をしてるんだ。それで、一応、ここには留学って事で来てるの」

「そうだったのか……」

「初めて守くんの小説を読んだとき、周りには信頼できる子は誰も居なかったから、凄く寂しかったの。

 でもね、あの小説を読んでこう思ったの。

『私がイラストを描きたい』って」

「……それでわざわざ?」

「うん、あの小説が、それに守くんが大好きだから」

「……!?」

 この時期には似つかわしくない強風が一瞬、俺たちの間を通りすぎ、麻衣の丁寧にセットされた髪は大胆に揺れる。

 長い髪に隠された片方の瞳があらわになり、ごくごく数秒だが、お互いに両目で見つめ合った。

 その大きくて綺麗な瞳は、確かに濡れていた。

 麻衣は無表情を崩し、微笑みながら泣いていたのだ。

 迫り来る別れの日に。俺の小説のイラストが描けなかったことに。……俺と付き合わなかったことに。

 麻衣はこれまで一度たりとも素性や夢、本当の思いを俺たちには打ち明けてはこなかった。

 だがそれでも、これまでの日々は決して偽りなんかじゃない。それはこの涙が証明してくれる。


「いつ帰ってこれるんだ」

「ずっと先かな」

「ってことは、また会えるんだよな?」

「うん……」

「その時には麻衣は絵で有名人かもしれないな」

「……どうだろうね」

「でも俺はその時でもしがない作家気取りなんだろうな」

「そんな事ない」

「絶対イラストは麻衣に頼むから」

「おっけい」


 誰がどう聞いたって、子ども同士の将来の夢に過ぎない。モラトリアム人間の俺にはある意味、ふさわしいのかもしれない。

 これまた子どもみたく、お互いが号泣とはいかずとも、瞳に涙を浮かべ、絶対的な別れとは完全に対をなす、漠然とした叶いそうもない夢。


 椎名と智音の恋愛問題に続いて、麻衣との別れ。個人的に夏というものは、物語における「承」であって、まさかこれほどまでに辛いものだなんて思ってもみなかった。

 やはりリアルと二次元は全く別物なんだな。

 それでも俺はいつまでも主人公であり続けたい。

「俺たちで最高の小説にしような」

「うん……!」

 悲しさを全面に醸し出そうとも、しっかりと励ます。あたかも自分に言い聞かせているかのように。これは別れなんかじゃない、本当のモラトリアム期間の始まりなんだと納得させる。



「またね、麻衣!」

「うん、智音も元気で」

「頑張ってくださいね、麻衣さん」

「椎名もね」

 かなり気まずが、呼ばない訳にはいかないので、告白を控える身ではあるが、しっかりと麻衣がイギリスに行く日時と理由は伝えておいたのだ。

「またね、守くん」

「ああ、またな!」

 搭乗ゲートの前で麻衣は俺にハグとキスをし、颯爽と飛行機内へ向かっていった。

 最後まで麻衣、お前って奴は………

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る