第3話 不可解と不愉快は紙一重
そう深くなかった睡眠はスマホから響くアラームによって完全に妨げられた。変わらぬ日常が俺をお呼びだ。若干の寝ぼけを感じながら、足に任せて洗面所へ向かう。ドライヤーの音が第二の目覚ましとなって、髪が整えられるにしたがって俺のエンジンもかかり始める。
昨日買ったリンゴジュースでも飲もうと冷蔵庫に向かう丁度その時、普段は開きっぱなしのノートパソコンが閉じてあること、そしてそうするに至った経緯の全容を瞬時に、そうでありながら、喉の奥に何かつっかえたような居心地の悪さがフラッシュバックしてくる。
『ホントに背が高いんですね~♡♡』
目的は分かるが意図が見えない朱音からの罠。考えを放棄し、ベッドに文字通り逃げ込んだが故に、今日の俺は一日中、そのことに多かれ少なかれ、脳内スペースを割かなければならない。ぼっちであるかどうかはこの際もはや関係ない。たとえ友達100人できた小学一年生であっても気味悪く思うに違いない。
とにかく俺はこのつっかえた、名状しがたいモヤモヤした疑念を流し込むべく、景気良さげにリンゴジュースを一気飲みする。しかし空になったコップと違い、俺の心に余裕は生まれず、時間に催促されぬ内に駅へと向かう。
今日はそう多くないにしても学生の身分に伴う義務、すなわち講義がある。その代わりと言っては何だが、アルバイトの方は休みだ。「ニート オートマタ」の異名を持つ俺は、極力シフトを入れないことで、精神的苦痛を軽減し、長期的勤労を自らに保証しているのだ。
肝心のチャットはもちろんスマホからもアクセスできるが、俺は学究の徒であるから、まさか学内でその様な行動はとるはずがないのだ。そう言い聞かして先ほどから数回知らされる通知を未読し、その上、他の学生に迷惑なので、通知音をオフにする。大義名分さえあればこちらは官軍。ましてや見ず知らずの一読者に私生活を破綻させられるようでは作家として非常に情けない。そう、これは正しき決断なのだ。決して臆するべきものではない。
幸か不幸か、体感的にいつもより早く全講義を終えることとなり、ぼっちである俺は帰宅の他に選択肢は滅多に生じなかった。それは今日とて同じこと。別段ケチという訳ではないが、無理に散財するほどの問題ではない。ただ何となく嫌な雰囲気を感じ取ったに過ぎないのだから。
防犯とボイストレーニングを兼ねて一人暮らしであるものの「ただいま」と虚空へ発する。
良かった。朝から色々と悩まされてはいたが、「おかえり」と幻聴を聴かせるほどまでには俺自身も至っていなかったようだ。俺自身は。
『おかえり♡』
これですよ、こういうのが不穏の種なんですよ。ホント辞めてくれませんかね。
やはり今一度思案すべきなのかもしれない。可能性は大きく分けて3つ。
一つは昨日見たく鎌をかけているだけ。これなら馬鹿正直に返答しなければ何ということは無い。問題はあとの二つだ。ハッキングかストーカーか。ややもすればその両方もあり得る。なぜこうなった。俺が売れっ子作家なら、こういう事態もある種、致し方ない点もあるのかもしれないが、はっきりと言おう、不人気作家であると。この事実がより恐怖に拍車をかける。
顔の見えない「朱音」という人間は何を考えて、こう語りだすのか。普通ならブロックされてもおかしくはない。ではそもそも、なぜ俺がしないのか歯に衣着せぬず言ってしまえば、単純にぼっちでDTで相手が初めてのファンだから。情けないよ、俺……
もはや吹っ切れた俺は『ただいま!』などという脳の機能を全権委任したかのような極楽とんぼ的コメントを送る。
『今日の実用英語の小テスト難しくなかった???』
ヤバい。確かに小テストは難しかったが、それを超える新たな難問が出題されてしまった。【実用英語】とは俺の履修している講義の名前だ。
第四の可能性―身近な人物説―が浮上したのと同時にこれこそ返答のしようのないメッセージであることに気が付く。いつになったら麻酔薬からの解決編が始まるんだよ。ボウズのヤツは今日も休みなのか?
『あれっ、もしかして細川先生って英語得意なんですか!?も~だったら私に教えてくださいよ!(^^)』
顔文字まで付けてそちらさんは「よし、楽しく話せたな」なんて思っているのか知らないが、俺はどうすればいいんだ!?さすがにこっちも思考停止で学友の如く会話するのは気が引ける。
『もぉ無視しないでくださいよ~』
『すみませんwちょっと急用入ったので一度抜けます』
そう何回も使える訳ではない手ではあるが有効でもある。君子危うきに近寄らず。
『……それって嘘ですよね』
梅雨前なのに何故だか、ひぐらしの鳴き声が聞こえてきたような寒気という一見矛盾のようで今の俺には的確な表現が脳裏に浮かぶ。わりぃ、俺死んだ。残念ながら引き攣った微笑みさえも浮かべられなかったが…………
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