第41話 混ぜるな危険を冒してこその均衡

「じゃあいきますよ!」

「ホントにするのか!?」

 俺は智音に壁ドンされ、乱暴に逃げなければあと数秒で……


 事の発端は昨日、麻衣が目覚めのキッスを俺にほどこし、それをいとも容易く智音に打ち明けた事に由来する。その日は玄関の鍵を閉めるその時まで、智音のジェラシーな視線が痛かった。それはもう、浮気がバレた彼氏にも似た気分だったが、自分史を紐解いても、彼女の存在は史料に無い。

 またもや監禁されるかも、などという尋常ではない悩みを抱えたまま寝床に入り、忘れ切った翌日、普通を装った演技派ヤンデレが俺を壁に押しやった。これがまさに今この状況である。


「ふふ、守さん、じっとしててね?♥」

 このドキドキはキスに由来しない気がしてならないのは、焦りからくる誤解なのか?

「や、やめろって……」

「ううん、これはだよ?だから逃げちゃダメだよ」

 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!とはならないに決まってるよな。心のATフィールドが常時全開な俺には耐えられない緊張感。お互いの境界線が消え去るとはまさにこの事。心理グラフシグナル微弱!

「ごめん!」

「ッッ!?」

 拗らせ男である俺はやはり付き合ってもない女子とキスできる程ではなかった。智音は俺が軽く押したことで、ガラスのハートが砕け散ったかのように放心していた。

「守さん……!?」

 普段から比較的大きな瞳を持つ智音だが、今は殺人でも目撃したかのように目が飛び出そうな程に見開いていた。

「何で?あれ?おかしいよね、これ。守さん、どうして?はは、ハハハ」

「さ、智音?」

 ヒステリックに笑う様子を見かねて、今度は俺が智音を抱きかかえる。静かなアパートの自室に響く狂気的な智音の笑い声は、あたかも墓地でカラスの鳴き声が響き渡っているかのようなコントラストの凄まじい喧騒。

 聞く人にすべからく不穏を与えるこの笑い声は俺が智音に呼びかけても止みはしなかった。そしてただ病みが世界を覆う。


「!?」

 狂いに狂った智音は傍若無人にも俺の口元を湿らせた。俺が智音に接近したのをいいことに数秒間がっちりと抑え込まれ、消毒どころかバクテリアを星の数ほど派遣するという濃厚接触。

「うはっ!?」

「守さん守さん守さん♥♥♥」

 新たなる扉がとうとう開かれた智音を止める術を俺は知らない。先ほどの事情もあって今度は無理に離れることが出来ない。

「この世で一番愛しているのは私なんですよ?」

 ぼっちである俺にはそれが容易に判断できるが、であるならば何もそこまでしなくてもという常識的見解はまだ正常に機能している。

「それはありがとう。でもさ、俺はもう少し皆と仲を深めたいな」

「私とだけでいいんです♥」

 世界が閉鎖されてゆく音かのように空気を振動させる智音の笑い。

 あまり推奨はしないが、毒を以て毒を制すという文言があるように、また目には目を歯には歯をというハンムラビ法典における復讐法のように、ヤンデレという劇薬にはヤンデレを。

「あっ、守さんどこに行くんですか!?」

 トイレに駆け込み、メールを麻衣と椎名に。男としては情けないが、ジェンダーレスが掲げられ始めた昨今、そんな指標は意味を持たない。

 ここで重要なのは二人に連絡するということ。麻衣を呼べば、それは麻衣にとって強味に、そしてまた智音を更に暴走させるという事でもある。それ以前に入れないので、不正入手した合鍵の持ち主、椎名が必然的に舞台に担ぎ上げられるという事になるのだ。

「智音、そこまで」

「麻衣!?冬ちゃん!?」

「いや、早いな」

 麻衣はともかくとして、椎名が合鍵と言い、このスピード感と言い、隠れヤンデレに思えてならないのだが。


「むぐ~!」

 ようやくお縄についた智音を電波女宇宙人のように布団にぐるぐる巻きにしておいた。『知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい』とはよく言ったものだ。流石は文豪、世相をよく切り取ってるなぁ……

「あっ、守さんに包まれてるみたい♥」

 これはもう駄目ですね。麻衣もそこで羨ましそうにしないでくれるかな?罰にならないから。椎名は椎名で我が物顔で冷蔵庫開けてるし。これが合宿に行く仲ってヤツなんですかね。

 そろそろしっかりと俺自身が対策を立てないと、昨日ふとよぎった別れの日の想像が早まってしまう。それが嫌に思えるほどには親しいが、やはりキスは早いよ智音……

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