ごめんね、驚かせちゃって。


 そう断ってから、彼女は沙月たちに話の続きをした。千枝子ちえこと名乗ったその看護師も、この団地の住人なのだとか。


「看護学校を卒業してすぐなの」


 看護帽に今気がついた様子の彼女は、慌てて帽子を取ると、誤魔化すように笑ってみせた。

 少しだけ歳上の綺麗なお姉さん。きつね顔の、もしかしたらキツそうだと思う人がいそうな彼女の顔を、沙月は「面倒見の良さそうな人」と思った。

 そんな千枝子さんは、日勤が終わって帰って来くると、たまたま沙月たちを見つけた訳だ。


葉純はすみはここにはいないと思うよ。さっき病院だ見かけたもの」

「ごめんなさい。私……私たちは片岡可奈さんに用があったんです」


 沙月の言葉を聞いて、千枝子さんは目を丸くした。


「可奈ちゃんに? あなたたち高校生だったの?」

「え?……はい」

「ごめんなさいね。私、てっきりだって早とちりしちゃってたわ」


 この歳になると、高校生も中学生もわからないのよ、と千枝子さんは自分のおでこを叩いてみせた。


「まだ一年生なんです」

「よく見るとシロコウの制服じゃない。いやぁ、ごめんごめん」


 千枝子さんは沙月の後ろいる上枝さんを指差して言った。そっか、私は今体操服なんだった。

 沙月は「案外この人は古い人間なのかもしれない」と、見掛けとは裏腹の彼女の仕草に可笑しくなった。


「でも、可奈ちゃんも、まだいないと思うよ」

「え?」

「あなたたち、あの子から何も聞いてないの?」


 沙月は後ろで小さくなっていた上枝さんと一度目を合わせてから「はい」と答えた。その返事で、破顔していた千枝子さんの顔が強ばる。


「あの、聞いても良いですか?」


 沙月には分かった。この人は、私たちの知らない可奈のことを知っている。


「私、何度か可奈の家に来たんですけれどずっと留守で、スマホでも返事くれなくて心配で、だから友達と一緒に探しているんです」


 何か知っているんですか?


 気持ち程度猫を被ったおかげで、千枝子さんは今度は苦い顔をしてみせた。

 教えてくださいと声に出さなくとも、彼女はすでに背中を押されているのだ。


 はぁ、と千枝子さんはため息をついた。「仕方ないか」と自分自身に向けて。


「実はね、可奈ちゃんのお母さんが入院しちゃってね……」

「入院!? どこか具合が悪いんですか?」


 沙月の背中の陰で小さくなっていた上枝さんが、ここに来て一番の大きな声で言った。


「ううん、足よ」

「足?」

「そう、階段で躓いて、足を骨折しちゃったの。大袈裟な怪我じゃないんだけれど、生活に支障が出ちゃうから、安静治療の意味も込めて一週間入院する予定なのよ」


 それから千枝子さんは、可奈のお母さんの病室番号まで教えてくれた。自分が直接担当している訳ではないけれど、同じ病院内なのだ。


「ありがとうございます」

「面会時間は、ご親族以外は夕方の6時までだからね」


 スマホを見ると、デジタルで「17:11」と表記されていた。


「分かりました。これから行ってみます」


 再び、沙月は大きく頭を下げて、千枝子さんにお礼を言う。後ろの上枝さんもそれに倣った。


 千枝子さんの顔は、キリッとしたキツネ顔に戻っていた。

 ほら、やっぱり良い人じゃないか。


 団地を出る頃には、沙月たちの頭上には気の早いいちばん星がいた。上枝さんにどうするのか聞くと、「明日も部活だから」と彼女とは別れることになった。

 それが良い。聞くと病院は彼女の家とは反対方面だった。


「何か分かったら連絡するね」

「うん、お願いね」


 自転車を拾った沙月は、バス停まで彼女を送ると、「ありがとう」と礼を言ってから自転車に跨がった。


 ここから自転車だと、ギリギリ間に合うだろう。


 バス停から大きく手を振る上枝さんを背中に、沙月はペダルを力強く漕ぎ始めた。


 ん? 待てよ。


 数メートル進んでから、ようやく気がついた。そして、止まる。まだ見える上枝さんも、「どうしたのか」と顔を覗かせた。


「ううん、何もないよ!」


 いけない、すっかり

 見ると、少しだけ頬を膨らませた少年が、小走りにやってくる。


「ごめんね」


 沙月は少年にだけ聞こえる声でそう言うと、彼が自転車の荷台に乗ることを確認してから、今度こそ自転車のペダルを踏んだ。

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