第二章
1
徹夜が響いたのか、沙月は一限目からとてつもない睡魔に襲われ、二限目の数学はなんとか持ちこたえたものの、休み時間中に今度は気分が悪くなってしまって、三限目からは保健室で仮眠をとっていた。
窓から入る日の光が、真っ白なシーツを目映く照らす。壁には木漏れ日の
夏の暑さにもやられたのだ。心がモヤモヤとくすぶって、眠たいのに眠れない。昨晩、ブログを書き終えたのは、夜中の2時過ぎごろだった。例の篝火が彼女を大きく見せたのだろう。熱中し、何度も書き直した。完全に納得のいく文章ではないけれど、それでも最低限伝えたいことは書いたつもりだ。
文章を書くのってむずかしいな、と沙月は実感した。
沙月は今朝から何度も、スマホで自分のブログをチェックしていた。コメントが来ているのか、どうしても気になる。ブログのページの下にあるコメント欄。ページを読んだ誰かが、感想やらを残してくれる。しかし、いまだに誰からもコメントは来ていない。
あのオカルトブログには100件もあったのに、と心の中で愚痴をこぼす。
校庭から、体育教師の笛の高音が聞こえてきた。
やがて、半覚醒を繰り返しているうちに、いつのまにか四限目の終わりのチャイムが鳴った。今から昼休みだ。「ご飯はどうする?」と保健室の教員に訪ねられ、「もう大丈夫です」と答えた。
教室に入ると、真っ先に可奈が駆けつけてくれた。
「沙月、大丈夫なの?」
「うん、夏バテみたい」
「よかった。ご飯どうする?」
「食べるよ。一緒に食べよ」
「うん」
その時だった。クラスメイトたちの――特に女子生徒たちがチラチラとこちらを見ているような気がした。気のせいかしら? そうは思っても、一度気になると無視はできない。何もないのに試しに引掻いてみると、本当にむず痒くなってしまうように、クラスメイトたちの何人かが、こちらを見てひそひそと何か言っているようだった。
「ねえ、沙月?」
「え? なに?」
可奈は今日も買い食いだった。昨日の反省か、パンがひとつ増えていたけれども。
「お化けの仕業じゃないよね?」
「お化け?」
「昨日言ってたやつだよ」可奈は声を潜めて言った。「ほら、頭に角が生えてる、子どものお化け」
それで沙月はピンときた。ジロジロとこちらを盗み見してくるクラスメイトたち。沙月は、あんパンの袋をちょうど開けた可奈に向かって、キッと睨み付けた。
「可奈、あのことみんなに言ったの?」
「え? 言ってないよ?」
「とぼけないでよ。みんなチラチラ私の方を見てきてるのも分かってるんだから。私が保健室にいるあいだに、みんなにばらしたんでしょう?」
「違うよ! 本当に何も言ってないんだから!」
可奈は食べかけのあんパンを机の上に置いた。しばらく可奈と目があった。まんまるの、少しだけタレ目な瞳。
「もういい」沙月は何も持たずに立ち上がった。「私、今日はひとりで食べるから」
そう言い残して、教室を出た。
まってよ! と可奈の声が聞こえてきたけれど、扉をぴしゃりと閉めて遮ってしまった。
廊下は相変わらず蒸し暑い。窓のずっと向こうには、特大の入道雲があった。
〇
「で、結局、その後も可奈ちゃんとは話さずに、一人で帰ってきたって訳ね」
カウンターで、綾音が煙草の煙をふぅと吐いた。
煙が溶けていく。沙月は普段は追わない煙の行く末を見届けてから、「うん」と頷いた。
ランチタイムも終わり、波がひいた喫茶パンチャには、常連の2組しかいない。彼らも食後のコーヒーを啜りながら、競馬新聞を読んだり、文庫本を開いて各々自由にひとときを愉しんでいた。
「今はどうなの?」
「どうって?」
「可奈ちゃんのこと」
いつの間にか綾音は煙草の火を消していて、こちらをジッと見つめていた。
「……ちょっと怒ってる」
はぁ……とため息をついて、綾音は眼鏡のブリッジに親指を当てる。
沙月も、いよいよ自分が大人気なく思ってきた。どうしてあのとき、早合点してしまったのかしら? 本当に可奈は何も言ってないのかも。じゃあ、どうしてみんなは私を見てきたのだろうか。
「何か、他に心当たりはあるの?」
「ううん」
「だとしても、可奈ちゃんを犯人扱いするのは早すぎ」眼鏡から親指を離して煙草に火を着けた。「明日、ちゃんと謝んなさいよ」
「はーい」
カランと音が鳴って、ドアが開いた。ハンカチで汗を拭う常連と一緒にセミの鳴き声も入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「どうも。今日も暑いね」
◯
午後7時の閉店時間を前に客足が途絶えたパンチャは、いつもより早めの店じまいをした。
バイト中はブログをチェック出来ていなかったものだから、沙月はそわしわしていた。
実は、クラスメイトたちの視線の理由はもしかしてブログのことなのか、とも考えてみたりした。しかし、未だに誰からもコメントは来ていなかった。
はたして、こんなものなのだろうか。
心の中の篝火が小さくなる。クラスメイトだけではなく、ちゃんと読まれているのかしら?
ネット社会の現代では、誰もが簡単にヒーローやアイドルになれてしまう。女優である母を武器としても、莫大なネットの海の中に沈んでしまうことの方が容易なのだろう。
沙月は、それが歯痒かった。
ご飯よ、と綾音の声が聞こえた。「はーい。今行く!」
19時近くになって、夏の外はようやく暗くなっていく。日暮しの鳴き声が聞こえる。寂しい影たちが部屋の中を駆け回っている。
誰も居なくなった沙月の部屋の中で、風鈴の鳴る音が響いた。
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