肌寒さで目が覚めると、雨が窓を打っていた。


 いつも違う薄暗い朝だった。時計を見ると、アラームが鳴るまであと10分というところ。沙月は布団の中でひとつ伸びをしてから、もうひと眠りと思ってタオルケットを引き寄せた。


 違和感に気がついたのはその時だった。 


 誰かいる――

 とたんに目が冴えてきた。夢と現の間だからこそ、お化けだの幽霊だのをすんなり受け入れてしまう。


 例のお化けかしら――

 沙月は手元にあったスマホのライトを着けると、思いきって布団から飛び出した。薄暗い部屋の中を照らす。雨音に負けず、心臓の音がよく聞こえた。しかし部屋には何も、誰もいない。気づけば背中が汗でびっしょりだった。Tシャツがへばり着いている。


 なんだ、何もいやしない――

 安堵の息を漏らしつつ、沙月はスマホのライトを消そうとして画面を見た。

 そして、それに気がついたのだ。


 スマホの画面にあるブログのアイコン。そこに「1」と赤く点滅している。

 音が逃げていく。まるで山間のトンネルに入ったかのように、現実が切り離されたみたいに。沙月は慌ててブログのアイコンをタッチした。


「新しいコメントがあります」

 その下には、

「ぼくはあなたのお母さんのことを、よく知っています。秘密を託されました」

 とだけ、書かれていた。


 差出人のユーザー名は「ゴーレム」とあった。


 トンネルを抜けた先には、その「ゴーレム」と名乗った謎の人物が、彼女を待っていたのだ。



 学校に着くころには、雨はいよいよ強くなっていた。


 バケツをひっくり返したとはまさにこのことで、傘を差していても靴下や制服のスカートが雨で濡れる。セミも今日はおとなしい。気温も連日よりぐっと落ちていた。それでもって教室内は冷房が効いているのだから、クラスメイトのなかには――特に男子たちは――素足になったり、体操着になっている者もいた。


 沙月は自分の席に着くと、可奈がまだ来ていないことに気がついた。いつもは自分より早いのに、彼女の席には鞄もなかった。


 どんよりとした、ジメジメした空気が教室の中に満ちる。床も濡れていて気持ち悪かった。


 学校に向かう前、沙月は孝太に電話した。留守番電話になった後、折り返しを待ったのだが、今も電話はない。


「はぁ……」ため息をひとつ。なんだか自分がちっぽけに思えた。


 朝のホームルームのチャイムが鳴る。担任が教室に入ってくると、沙月たちのことなどお構い無しに、「もうすぐ夏休みですね」と淡々と話をはじめた。


 沙月は担任に見つからないようにスマホを取り出すと、可奈へメッセージを送った。


「どうしたの? 今日休み?」


 それから、「昨日はごめんね」と送ろうとしたが、教室の後ろの方で、またしてもヒソヒソと話し声が聞こえ、なぜだかそのメッセージを送るのを止めてしまった。振り向かずとも、背中でちゃんと分かった。きっと、自分のことを言っているのだろう。沙月は必死に無視を決め込んで、スマホを鞄の奥にしまいこんだ。



 終鈴のホームルームになっても、可奈は学校に来なかった。


 どうしたんだろう――

 メッセージの返事もなく、担任も彼女の欠席について何も言わなかった。代わりに、朝にも話した「夏休み」について、同じ事を繰り返すばかり。

 遊ぶことも大事だけどちゃんと宿題もすること。バイトは学校の許可を得ること。犯罪には巻き込まれないこと。


 孝太からの折り返しもなかった。

 何度かブログもチェックしたのだが、例の「ゴーレム」以外の新しいコメントも無かった。

 

 いよいよ沙月は寂しくなってしまった。

 雨は弱まることもなく、それが余計に彼女の心を曇らせた。味方だと思っていた人たちが、皆遠くに行ってしまったような。いや、自分が勝手に突っ走って、離れていったのかもしれない。


 担任にバレないように、沙月はブログを開く。唯一コメントをしてくれた「ゴーレム」。そのアイコンをタッチしてみると、彼のユーザーページへと飛ぶ。沙月もそうだけれど、写真や背景も何も設定していない初期設定のままのアカウントだ。

 ただ、紹介文には「ぼくはゴーレム。秘密を守ります」とひと言あるだけ。


 秘密を守ります――

 沙月は、この妙な言葉にひっかかった。それに「ぼく」という一人称のせいで、どうしてもあの少年を思い出してしまう。

 前に自室で見た、頭から角が生えたお化け(かもしれない)少年のことを。


「東さん?」


 前の席に座る男子生徒が沙月を呼ぶ。担任が配らせたプリントが回ってきたのだ。沙月は「ごめん」と言ってそれを受けとり、また後ろの席にプリントを回す。その時、振り返った拍子にヒソヒソ話の女子生徒たちと目が合ったけれども、彼女たちは罰が悪そうな顔をして目をそらしてしまった。


 配られたプリントは、夏休みの注意項目が羅列したものだった。沙月はそれをすぐに片付けると、再びスマホに目をやる。


 ブログには、他の誰かと直接やりとりができるダイレクトメッセージ――チャット機能もあった。ほとんどのSNSにもある。今の時代、駅前の待ち合わせベンチや公衆電話なんかは、すべてネットの中にあるのだ。誰とでも繋がれる。誰とでも繋がってしまう。


 沙月は、「ゴーレム」とのダイレクトメッセージタブを開いていた。

 そして、「ブログへのコメントありがとうございます。教えてください。母のことを」とメッセージを送った。


 躊躇いはなかった。躍起になっていたからかもしれない。ヒソヒソ話から逃げたかったからもしれない。そんな彼女の気持ちに呼応するかのように、「ゴーレム」からはすぐに返事が来た。


「牛神神社にぼくはずっといます。むかえにきてください」


 はてな? どういう意味なのだろうか。

 孝太の意見が聞きたいけれど、まだ折り返しはない。親友である可奈からもまだ返事は来ていない。


 どうすれば良いのか。沙月は、唯一返事をくれた「ゴーレム」からのメッセージとにらめっこすることしか出来なかった。


 担任は、今度は来年から始まる受験について語っていた。進路をどうするのか、それも夏休み中に考えておいてくださいね。聞いているはずなのに、耳から通りぬけている。雨の音にも、後ろのヒソヒソ話にも邪魔された訳ではない。

 夏という大きな魔物に食べられてしまったかのように、沙月の頭の中は真っ白になっていた。

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