あれは沙月が中学生の時だった。

 修学旅行で東京に行った時、グループで都内観光している最中に、彼女は母に会った。いや、見かけたのだ。神田神保町の駅のすぐ近く。鈴蘭通りを歩いていると、何かのロケをしているのか、カメラやマイクを持った人やちらほらと野次馬の人だかりもあった。沙月だちも興味本位で近づいてみると、その輪の中心にいたのが、彼女の母である涼森れいなであった。


 沙月はぎょっとした。あの日も夏の暑い時期だったのに、背中に冷たい氷でも当てられたように、全身が寒くなっていった。


 涼森れいなは、テレビで良く見るような綺麗な人だった。笑顔で店主とやりとりしているのが印象に残っている。


 そして、目が合った。ほんの一瞬だったけれど、人混みの間から、確かに母と目がこちらを向いたのだ。その時、母は――涼森れいなはまるで苦虫をかみ砕いたかのような表情を見せたのだけれど、すぐに笑顔に戻って、「それじゃあ中に入ってみましょう」とカメラマンたちを連れて店の中に入って行ってしまった。


 沙月は、この時のことをよく覚えている。自分を見つけた母の表情が微かに変わったこと。そして、まるで逃げるかのように店の中に入ったことを。


「そして、お母さんは亡くなった……と」

「はい。死因は乳がんでした。それも末期の」

「じゃあ、進行していながら女優活動を続けていたんだね」

「そう……ですね」

「なるほどね……ちょっと聞きにくいことなんだけどさ?」

「何でしょうか?」

「たしか、涼森れいなは結婚していなかったよね?」


 そうだ。沙月に父はいない。もちろん彼女には知らないのだけれど、この時も各マスコミが騒いだのであった。「人気清純派女優に妊娠発覚! 相手は不明」と。


 冷房を効かせるために窓は閉めているのだけど、どこかで風鈴の鳴る音が聞こえた。


「分かった。じゃあ、どうしてお母さんのことを書こうと思ったの?」


 今度は電話越しにカチっと音が聞こえた。孝太が煙草に火を着けたのかも知れない。


「母が死んで、今でもそうなんですけれど、どのテレビを着けても涼森れいなのことを話題にしていますよね? 特番が組まれたりもして。そのどれもが何と言うか……」

「美化していると?」


 孝太はさらっと言ってのけた。その表現が沙月の中でも一番しっくりくる言葉で、彼女はすぐさま「はい」と頷いた。


「要するに、幼い我が子を捨てて、自分勝手に生きた母なのに、世間はそれを知らないことが歯がゆいんだね」


 やっぱりこの人は鋭い。沙月は本当に自分の心が見透かされているような気がして、思わず布団の上で正座を組んでいた。

 心してかからねば――


「正直、俺も涼森れいなのことは詳しくは知らない。そりゃあ街中で見かけたら顔くらいは分かるよ。なんたってドラマや映画によく出演していた名女優さんだからね。でも世代が少しずれてるからさ」


 また風鈴の音が聞こえた気がした。

 この家に風鈴なんてあったっけ?


「沙月ちゃんの言いたいことは分かったよ。それを踏まえて、もし俺が同じ立場で同じことを考えたら、まずはお母さんのことを、涼森れいなのことを詳しく調べることから始めるね」

「詳しく……ですか?」

「そうだよ。だって、沙月ちゃんはお母さんと会ってないんでしょ? なら他の大勢の人たちと同じで、テレビに映るお母さんのことしか知らないんじゃない?」


 そうだ。自分は母のことを何もしらない。

 でも――


「叔母さんなら」

 

 思わず、閃いた言葉をこぼしていた。孝太にも聞こえていたのであろう。彼は優しく「そうだね」とだけ答えた。


 きっと、孝太には話の途中から分かっていたのであろう。しかし、敢えて沙月自身にヒントを見つけさせたのだ。


「ありがとうございます」

「いえいえ、他になにか力になれることがあれば相談してくださいね」


 この番号、登録しておくからさ。

 そうして、電話は終えた。スマフォを見ると30分近くも話していたらしい。


 沙月は頭を整理した。そしてゆっくり立ち上がると、足の痺れにも構わず、綾音のいる一階の居間へと向かった。

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