第四章

 パパがいないの? なら、私と一緒だね!


 小さな手だった。だけど、その時の沙月にとっては、彼女の手は頼もしかった。

 幼いながらも、直感で分かったのだ。この手なら大丈夫。きっと、この人なら、何でも打ち明けて良いのだ、と――


 はじめて出会ったときのも笑っていた。よく覚えてる。目を瞑るくらい、うんと大きく笑ってくれた。


 可奈も、あの時と同じだ。小さな手で、自分の手をぎゅっと握ってくれて、特大の笑顔で私のことを


 そして引っ張られる。だけど私は動けない。手を繋いでくれているはずなのに、幼い可奈だけが、笑顔のまま、走り去っていく。


 気がつけば、握られていた自分の手が消えていく。指から手首へ。手首から腕へ。腕から肩へ。そんな私のことなどお構い無しに、可奈は暗闇の中へ走っていく。


 追いかけたくても動けない。やがて、少女の背中も見えなくなった。


 待って! どこに行っちゃったの? 教えてよ! どこにいるのよ!?


 目が覚めると、スマホのアラームが鳴っていた。

 時刻は朝の8時すぎ。7時半に鳴って、スヌーズで再び鳴っているのだ。


 窓から射す朝陽が、居間の畳を白く縁取っている。カーテンも全開で、網戸にしているせいか、セミの声がよく聞こえてきた。


 夢?

 起き上がると、隣で寝ていたはずの綾音の布団は、もう片付けられていた。


 へんな夢見ちゃった……。

 うつつへ足を踏み入れた沙月は、いちどだけ伸びをしてから、ゆっくりと布団から出た。首筋には汗がたまっていて、頬には涙の筋跡があった。


 綾音は、パンチャの店内で珈琲を啜りながら朝刊を読んでいた。


「おはよう」

「おはよう、今日から夏休みね」


 そうだ、今日から夏休みなんだ。危うく、「今日は体調が悪いから休みたい」と溢しちゃうところだった。


「珈琲飲む?」

「うん」

「じゃあ、先に顔洗ってきなさい」


 まだ目が開いてないよ、と綾音は静かに笑った。


 それから顔を洗い、珈琲の前に沙月は階段を登って、自室へと向かった。母の秘密を知る、頭に一本の角が生えたゴーレム。彼はベッドの上に座って、猫のように窓から外を眺めていた。


「おはよう」


 声を掛けると、少年は顔だけをこちらに向けて「おはよう」と返してきた。


 きっと、夏の魔物のせいだ。

 少年が来てたったの2日。なのに、もう当たり前の同居人のように、受け入れてしまっている。他の人には見えない、不思議な同居人だけれど。


「朝ごはんは?」

「ううん、いらない」

「そう、じゃあ何か飲む?」

「なら、コーラが良い」

「OK」


 沙月は勉強机に座って、パソコンを起動させた。 


「昨日はどこに行ってたの? 散歩してたんでしょ?」

「色々と、商店街行ったり、団地の公園で遊んだり」

「団地の公園? ひとりで?」

「うん。ひとりで」


 パソコンが立ち上がる。沙月は「まぁそっか……」とマウスを握る。


 ひとりで遊んで楽しいのかな?

 沙月は自分のブログを開く。相変わらずコメントは後ろの少年がくれた1件だけ。仮に、「涼森れいな」とダイレクトに検索しても、4ページ目にやっとリンクが現れるくらいだった。


「珈琲淹れたよー!」


 下から、綾音の声が聞こえてきた。沙月は「はーい」と返事をして立ち上がる。

 ゴーレムは、まだベッドの上に座ったまま、窓の外をじっと見つめていた。反射して見える少年の顔は、どこか寂しそうだった。


「私、今日も学校に行くの。夏休みで授業はないから、来たいなら着いて来ても良いよ」


 それを聞いたゴーレムは、ばっとこちらを振り返った。返事はしなかったけれど、嬉しそうに少しだけ笑ってみせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る