コーヒーをひとくち飲むたびに、夢現の境目が、ようやくはっきりとしてきた。


 昨夜帰宅したのは午後8時を回っていて、玄関を開けたとたん、綾音がすごい剣幕で慌ててやってきたのだった。


――もう少しで警察に連絡するところだつたんだから。


 昨日は可奈を探しまわっていたのだ。音信不通になった親友を、クラスメイトの上枝うええださんとともに。それから、可奈の従妹である葉澄はすみとも会った。

 葉澄はなんと、女優涼森れいなの大ファンだと言い、最後には娘である自分に握手も求めてきたのだ。でも、どこか憎めない。むしろ好感をもつ彼女の笑顔は、いまでもよく覚えている。


 おかげで疑念は晴れて、ようやく可奈にも会えた。

 心の重りがひとつ無くなった。これでようやくに専念できるのに、反対に「どうすれば良いのか」と迷っている自分もはっきりと見えてきてしまったのだ。


「そうそう、雑誌届いたわよ」

「雑誌?」

「うん、こないだ取材してもらったやつ。すごく素敵よ」


 タバコの灰を落とした綾音は、カウンターに置いてあった雑誌をぽんと渡してくれた。


 『MACHIKO』と柔らかいフォントで綴られた雑誌。表紙はカフェ特集らしく、イラストで湯気がたつコーヒーカップが描かれていた。


 沙月も取材に居合わせた。その時インタビューしてくれたライターである孝太のおかげで、彼女は母の本を書くことを決めたのだ。


 そう言えば可奈探しに夢中で、最近連絡をとっていなかったっけ――


 付箋が貼ってあるところを捲ると、ちょうどパンチャのページだった。

 お店の内観写真が1ページまるまる大きく印刷されていて、対向ページにはコーヒーや自慢のサンドイッチの写真と共に、読んで嬉しくなるコメントが書かれている。キャッチコピーも良い味をだしていた。


 でも――


「『素敵なお店』ですって。なんだか、嬉しくなっちゃうわね」

「……うん」


 ページの端には、「text/Kota」とあった。そこで沙月は、ページを読みながら抱いていた違和感の正体に気がついた。


「これって、のことは何にも書いてないんだね」

「え?」


 コーヒーを飲み終えて、自分のカップを洗っていた綾音の手が止まる。


「だって、言ってたじゃない。『私は女優の涼森れいなの娘で、叔母さんは妹なんだ』って」

「あぁ……気を使ってくれたんじゃない?  そっちの方が、沙月も良いでしょ?」

「うーん、でも良いのかな? そんな触れ込みがあったほうが、ニュースになりそうだけれど」


 読者や視聴者にとって、大袈裟なニュースを届ける。道端の小さな石ころを年代物の由緒ある輝石だと見せるのが、メディアの仕事だと沙月は思っていた。

 今話題の、涼森れいなの親族がやっている店となればきっと目立つのにと、沙月は思ってしまったのだ。


「そういえば、姉さんの本の執筆は順調なの?」


 洗い物を終えた綾音が隣に座る。濡れたままの手で眼鏡を触ったのか、レンズに小さな滴がひとつ着いていた。


「ううん、ぜんぜん。何書いたらいいのか、分かんない」


 雑誌を畳んで、コーヒーをひとくち。

 隣の綾音はニコリと笑って、タバコに火をつけた。そして、彼女のお決まりの癖で、眼鏡のブリッジを、トントンと指で叩いてみせた。

 パンチャの分厚い壁の向こうから聞こえる蝉たちの鳴き声をBGMに、眼鏡を叩くリズムが小気味が良い。


 なにかアドバイスをくれるのか。沙月はコーヒーカップを置いて、姿勢を少しだけ整える。


 しかし、なによりも先にこの沈黙を破ったのは、居間から聞こえてきた着信の音だった。アラームをセットしていたから、マナーモードにはなっていなかったのだ。


 沙月はコーヒーをそのままに、慌てて居間にあるスマホを取りにいくと、相手は先ほど話していた孝太からだ。


 電話のはずなのに、沙月は外にはねた前髪を手で押さえた。そして、通話ボタンをタッチする――


「見つけたよ! 女優である涼森れいなを知るテレビ局の人を」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る