「やっぱり、叔母さんには見えないみたいです」

「そっかぁ」


 電話越しの孝太の声は、どこか安心しているような色があった。


 帰宅した沙月は、玄関戸を開けると早々に、「どこにいたの?」と腰に手を当てた綾音かは咎められたのだった。さすがに、もう大声で怒鳴られることはなかったけれど、眼鏡越しの瞳の中は、心配の火が静かに揺れているのがわかった。


 ごめんね、叔母さん。

 そう謝ってから、帰りが遅くなった理由を適当に誤魔化した。


「別に遅くなってもいいけれど、今度からはちゃんと連絡してね」


 綾音はそれ以上は何も追及してこず、夕飯の支度のために、さっさとキッチンへ行ってしまった。


 それだけだった。たったのそれだけ。沙月の隣には、例の少年がちゃんといたのに。


 電話越しに、カチっとライターの音が聞こえてきた。沙月は、彼が煙をひとくち吐くまで待ってから、こう続けた。


「その子は? とかも聞かれることは無くて、ただ私を叱るだけ叱っただけでした。本当に、本当に本当に見えていないんですね」

「あり得ないことだけれど、認めるしかないようだね」

「なんだか不思議……」

「あの子はそこにいるの?」


 勉強机に座ったまま、沙月は自室を振り返った。窓際の布団。その脇に少年は三角座りをしていた。

 頭に一本の角が生えた男の子。彼はゴーレム。秘密の番人。


「はい」

「何か聞けた?」

「いえ、何も」


 あれから、沙月も自分なりに質問をしてみたのだけれど、少年は決まって「秘密」とだけ答える。孝太ほど上手く出来なかったからではない。ゴーレムの口は思っている以上に固いのだ。


「これからどうすれば良いでしょうか? 孝太さんは何か分かりましたか?」

「うーん……正直何も分からないよ」


 でも、と孝太はひと呼吸ついた。煙草を咥えたままなのか、声が曇っていた。


「彼は言ったよね? 秘密を知っている人がいるって。それは自分に秘密を教えてくれた人なんだって」

「はい」


 秘密を守る番人。ならば、それを守れと彼に命じた人もいるはず。


「フィクサーを追いかけた方が早い気はする。なんたって君のお母さんの秘密だし、案外近くの人かもしれないよ? もしかしたら、綾音さんが仕掛人かも」


 まさか。

 でも――


「でも、叔母さんにはこの子が見えてませんでした」

「あくまでも可能性だよ」孝太は笑って答えた。「お母さんの妹さんだからね」


 電話を終えて、沙月はひと呼吸してから、膝を抱えた少年の前に座った。


 少しだけ膨らんだ頬は、シルクのように滑らかで、その上に睫毛の影が落ちている。寝ているのだろうか。

 寝顔は普通の男の子だ。違うのは、短い坊主頭にある一本の角と、他のみんなには見えないこと。


 沙月は少年の肩を優しく叩いた。触れられることにも今気がついた。そう言えば、孝太も触れられていた。綾音や、他の人にはどうなのだろうか、と考えてみる。


「お風呂は?」


 沙月の問いに、少年は瞼を擦りながら「ううん」と眠たそうに答えた。


「ごはんもいらないの?」

「うん、いらない」


 ご飯はいらないのに眠たくなるのか。ならば、と沙月は少年の前で座り直した。


「私たちにしか君が見えないんだよね? その資格ってなに?」 

「言えない。でもすぐに見つかると思う」


 これも同じ答えだ。なにも答えてくれない。せっかく母の秘密を知るための、大きな前進だと思っていたのに、反対に大きく遠回りしている気持ちになる。


 どうしたものか――

 沙月は、再びうとうととし始めた少年を見て、素直にこう投げ掛けてみた。


「君の本当の名前は?」


 目を擦っていた少年の手が止まる。そして、重たそうな瞼で、こちらを見つめてきた。


「ぼくの本当の名前?」

「そう。ゴーレムじゃなくて、本当の名前」


 考えごとをするかのように、少年は今度は頭に手を当てた。

 おや? と沙月は思った。


「思い出せないってこと?」

「……わかんない」


 わからない。この少年にも、お父さんやお母さんがちゃんといて、本当の名前があるのかしら?


 だとしたら……。

 静寂が部屋に落ちる。しかし、少年はいくら待っても返事をしなかった。

 

「ねえ? お姉ちゃん」

「な、なに?」


 はじめて、ゴーレムから口を開いた。


「ぼく、もう眠たいよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る