およそ、2時間ほど話したのだろうか。


 佐渡家を後にして、沙月たちはゴーレムを連れて孝太の車が停めてあるパーキンまで歩いて向かった。車に乗り込むと、2人はほぼ同時に、深いため息をついた。


「緊張しましたか?」

「うん……めちゃくちゃ」


 窓外の、閑静な住宅街を子どもたちが駆け回っている。首からは虫かごとがかかっていた。


「結局、何も分からずじまいですね」


 佐渡は確かに母と仕事をしていた。でも、肝心なところは忘れ、思い出したら連絡するとのこと。母はなぜ地元に帰ってきたのか。そしてなぜ復帰したのか。すべては、佐渡が思い出すまで待たなければならないのかと思うと、沙月は遠くで揺れる陽炎のように少しだけ憂鬱になった。


「そうかな?」


 タバコに火を付け、煙をゆっくり吐きだした孝太は、どこか飄々としていた。


「じゃあ、何か分かったんですか?」

「ううん、でもはあったよ」


 ちょっと待ってね、と孝太がスマフォを取り出し、いつの間にか録音していた佐渡との会話を流しはじめた。


「いつの間に?」

「職業病だね。本当ははじめに断らないとだけど、今回は特例ってことで」


 抜け目ない。緊張していても、孝太はやるべきことはやっている。


「沙月ちゃんは今年でいくつ?」

「え? 17ですけど」

「やっぱりね」

「何がですか?」

「佐渡さんが話していた年代を計算してみたんだ。するとね、涼森れいなが芸能活動を休止したのが、ちょうど沙月が生まれたころなんだよ」


 そこで孝太はひと息ついて、まだ長いタバコの火を灰皿に捨てた。


「綾音さんも佐渡さんも、揃ってこの記憶だけ思い出せない。何か感じない? きっとここに秘密が隠されているんだよ」

「でも、どんな?」

「佐渡さんが言っていた『絆創膏』の放送から、涼森れいなの復帰作まで6年間ある。だから確証はないけど、でも自信もある」


 通り過ぎていった子どもたちは、小さな人影になって陽炎と一緒に揺れていた。孝太はボイスレコーダーを巻き戻して、佐渡が涼森れいなが休止した話をしているところで、もう一度止めた。何かを確認するように、ぼそぼそと独り言をこぼしながら。

 そして――


「もしかしたら、涼森れいなは赤ん坊の君を育てるために、芸能活動を休止したんじゃないかな?」



 佐渡さんの話だけじゃ不確定だから、と孝太は引き続きテレビ局のひとを当たってくれることになった。


 家に着くと、閉店した店内で綾音がちょうど夕飯の支度をしていた。今夜はカレーのか、野菜とビーフとスパイスの優しい香りがする。


「ねえ、おばさん?」

「なに?」


 夕飯は、いつも決まってパンチャの奥のテーブル席で食べる。沙月はコップやらスプーンやらをその特等席に並べ終えると、注意深くカレーの味見とにらめっこする綾音に聞いてみた。


「昔、どうしてお母さんが帰ってきたのか、思い出した?」

「私、そんなこと言ったっけ?」

「うん」


 味見を終え、何か物足りないのか、綾音は業務用の冷蔵庫からスパイスをひとつまみして鍋に放り込む。


「一昨日くらいかな? 寝る前におばさんが言ってたよ」

「うーん」


 メガネのブリッジをトントン、トントンと……。しかし、それ以上言葉は続かなかった。


 午後7時時20分。夕食を終えて、涼森家は自由時間となる。シャッターも降りたパンチャ内では、カウンターにだけ灯りを着けて、綾音が電卓を叩いている。

 午後8時40分。シャワーを浴び終えた沙月は、居間のつけっぱなしのテレビを消して、2階の自室へ向かう。トン、トンと、夜の静寂の中で、足音だけが妙に響く。


 今ではすっかり居ることがになったゴーレム。まるで拾い猫のように、少年は我が物顔でくつろいでいた。


 午後8時43分。夏休みが始まり、幾日か経つ。明日からは8月だ。夏らしい湿り気の、熱が漂う畳上で、沙月はゴーレムの肩を叩いた。


「ねえ、お母さんが地元に帰ってきていたのって本当?」

「うん」


 認めた。ゴーレムが、はじめて。


「じゃ、じゃあ! それって、私が生まれたから?」


 つい勢いよく言ってしまった。しかし――


「それは秘密」

「どうして?」

「鍵がないとダメ」


 ため息をひとつ。ここでも鍵だ。淡い期待をしていたせいか、聞き飽きたその言葉に腹が立つ。でも裏を返せばそれほど重要だということ。


 ピコン。

 午後8時49分。そのとき、電話がなる。孝太からだ。


「はい、もしもし?」

「もしもし! 今、大丈夫?」


 電話口の孝太は焦っていた。もしかして、もうお母さんのことが分かったのかしら。


「はい……大丈夫です」

「よかった」


 孝太が息を整える。沙月も、落ち着けと自分に言い聞かせ、首を長くして待つ。母が地元に帰って来ていた理由。そして、なぜ母は私を捨てて、もう一度女優へ復帰したのか。どんな運命でも受け入れられる。それくらい、孝太が次の言葉を発するまで、たっぷりの沈黙があった。


「あのね、びっくりしないでね」

「……はい」


 しかし、午後8時54分に発した孝太の言葉は、沙月の想像とはまったくの別ものであった。


「ゴーレムの正体がわかったよ」


 身が凍る。

 午後8時55分。どこかで風鈴の音が聞こえた。



(「第六章」へつづく――)

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