終業式はおよそ一時間ほどで終わった。


 全校生徒を詰め込んだ体育館は、まるで蒸し風呂だ。冷房はあるのかしら? 外の方が涼しいもんだと、教室に向かう生徒たちは口を揃えて「暑かったね」と言っていた。


 明日から夏休みだ。

 なのに、やはり可奈は今日も来なかった。


 渡り廊下を歩いていると、空いた窓からふんわりとした風が入ってきた。少しだけ潮を含んだしょっぱい風。親友の秤が重たくなる。


 可奈にも、この風が届いているのかしら? 

 そんなことを考えながら、割れた前髪を直していると、誰かが後ろから肩を叩いた。


あずまさん?」

「は、はい!?」


 突然のことで、思わず声が上擦ってしまった。振り返ると、クラスメイトの上枝うええださんがいた。

 確か吹奏楽部だったっけ。あまり絡んだことはなかったけれど、つい先日から眼鏡も外して、明るいリップにしたりと、少しだけイメチェンしたことが記憶にあった。

 たまに可奈と仲良く話しているところを見た気がする。それも特別仲が良い訳ではなくて、誰とでもフランクに接する可奈の性格のおかげだろう。


「片岡さんのことなんだけれど」


 片岡さん――可奈のことだ。ほら、やっぱり。


「可奈のこと?」

「うん。ほら、最近休みがちで、今日だって来てないでしょ?」


 何か知ってるの?

 そう聞こうとする前に、上枝さんはポッケからスマホを取り出した。分厚い、パンダのシリコンカバーが着いていた。

 

「実は気になって、メッセージを送ったの」


――学校来てないけど、大丈夫?

 見せてくれたスマホの画面には、上枝さんが可奈へ送ったメッセージがあった。 

 そして、その下には「大丈夫です」とひと言、返事が来ているではないか。


――大丈夫です

 たったひと言。返事が来たのはついさっき、校長先生か話をしているくらいの時間だ。


 沙月はその画面に見入ってしまった。頭のなかで色んなことがぐるぐると回る。


「本当に大丈夫かな? 片岡さん、変なことに巻き込まれてなかったらいいんだけれど」


 巻き込まれる? 可奈が? 何に?


「だってほら、クラスのみんなも噂しているから」


 スマホをしまった上枝さんは、言いにくいことでもあるのか、目を反らし、声を小さくしてこうつけ加えた。


「知らない男の人と、一緒に歩いていたのを見たって……」


 例のヒソヒソ話を思い出す。どういうこと? あれは私じゃなくて、だったの?


 渡り廊下の窓から、また風が入りこんでにた。今度はたくさんの潮のしょっぱい香りがあった。



 教室にもどった沙月も、すぐに可奈へメッセージを送った。すると、さっきの上枝さんと同じ、すぐに「大丈夫です」とだけ返事が帰って来た。


 教壇では担任が通知表をクラスメイトたちに配っていたけれど、お構い無しにメッセージを送る。


 本当に大丈夫なの? これから会える?


 通知表の結果で盛り上がる教室の中で、例のヒソヒソ話は健在だった。送ったメッセージに、既読はすぐについた。でも、今度は返事は来なかった。


 元気のよい男子生徒たちが、一斉に教室から飛び出していく。中には駆け足の者もいた。窓から射す夏の光が眩しくて、心が痛い。


 沙月は担任を呼び止めた。知らずの内に、呼び止めていた。

 

「可奈は……?」

「うん?」


 不思議だ。目に映るものが、全部スローモーションに見える。元気に廊下を走る男子生徒たち。笑顔ではしゃぎ合う女子生徒たち。メンドクサそうな顔をする担任教師。


 知らない男の人と歩いていた?

 私と同じで、可奈には父親がいないのに?


「片岡のことか? それなら先生のほうが聞きた――」

「可奈はどこにいるの!?」


 それは叫び声に近かった。

 教室にいた生徒たちの視線が集まる。気がつけば涙が溢れていた。立っていられず、目の前の担任にしがみつく。


「お、おい!」


 沙月だって、自分が今どうしてになっているのか分からない。分からないけれど、心が勝手に動いてしまう。


 可奈はどこ? いったい何があったの? どうして返事をくれないの? 私が酷いこと言ったから? 誰でも良い。から、誰か私に「答え」を教えてよ!


 嗚咽が激しくなる。心配した生徒たち何人かが、沙月の元にやってきてくれた。中には上枝さんもいた。それでも、沙月の涙は止まらない。


 こうして、沙月の夏休みが始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る