第七章

 女優・涼森すずもりれいなは、どこか気だるげな表情かおで、鏡台の前で髪を解かしていた。


 沙月は困惑していた。部屋を見渡すと、さっきまでいた自宅の居間と同じ。なのに、叔母である綾音あやねやゴーレムはおらず、涼森れいながただ1人。

 それに、居間にも見覚えの無い家具がちらほら見えた。鏡台は同じ物だが、畳の上に敷いたカーペットや、窓に掛かるカーテンの柄も違う。そして木製のベビーベッドが、狭い居間をほとんどを占領していた。


 ここは、いったいどこだろう――?


 見覚えがあるのに、知らない部屋。どか懐かしく、馴染みのある部屋。突出すべきは、涼森れいな、だ。

 宝石のようなぱっちりと瞳に、桜色の小さな唇。どこか幼さを感じる、白くて丸い頬には、艶のある黒髪が数本掛かっていた。


 化粧気がなくとも――やはり女優ともあって――様になっていた。馴染みのある居間であっても、細部まで1から造り上げたドラマのセットのように思われた。


 なぜ彼女がここにいるのか。

 沙月は、どこからかコーヒーの良い香りがする気がした。やはり、ここは喫茶パンチャだ。生まれ育ち、毎朝欠かさず嗅いだオリジナルブレンドコーヒー。


「あの……」


 と、沙月は恐る恐る声を掛けてみた――が、返事はない。声が空を切る。そこで沙月ははっとした。そもそも、狭い居間に自分が居れば、れいなは――鏡台に座っているのだから――すぐ気がつくはず。だが、鏡台を覗きこむと、自分の姿は写っていないではないか。いよいよ、沙月は自分が透明人間なのではと、怖くなってきた。


 その時、髪を解かし終えたれいなは、鏡台の引き出しから何かを取り出した。それはゾウの絆創膏だった。パッケージの色はせておらず、ポップなイラストのゾウが描かれていた。

 そして、れいなは微笑んだ。まるで宝物を触っているかのように、丁寧な手つきで絆創膏を眺めている。


「おはよう。コーヒー淹れたよ。飲む?」


 綾音が顔を覗かせた。とは違った銀縁の眼鏡を掛けて、愛煙家らしくセブンスターを咥えながら。


「コーヒーはダメよ」とれいなは慌てて絆創膏を片付けた。「それに煙草も私の前では吸わないでよってね。何度言えば分かるのかしら」


 れいなは渋い顔をして、ツンっと顔を背けた。それでも、彼女の声は透き通っていて、ドラマとは違って幸せに溢れているのだと、沙月は思った。


「ごめんごめん。でも朝食は食べるでしょ? 姉さんの好きなハムレタスサンド」

「うん」

「もう出来てるから。飲み物は牛乳で良い?」


 良いですよ、とれいなは立ち上がった。彼女のお腹は大きく膨らんでいることを、その時になって沙月ははじめて気が付いた。




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