気付けば、沙月は病室の真ん中に立っていた。


 いつの日か、可奈かなの従妹である葉澄はすみと出会った病院と同じだ。状況が読み込めず混乱する頭の片隅で、沙月の目に留まったのは、病院のベッドで横たわるれいなの姿だった。

 ベッドの隣には、綾音も居た。パイプ椅子に座ってれいなと何かを話している。


 おぎゃあ! おんぎゃあ!


「あらあら、元気な赤ちゃんですね」


 振り替えると、看護師がトレーに乗せた食事を運んできた。


「普通なら、産まれてすぐはおとなしいんですけれどね」


 看護師は笑顔のまま、テキパキと食事の準備をする。


「よーし、よし。ママはここに居ますからね」


 泣きじゃくる赤ちゃん。れいなはその子の小さすぎる手のひらに指を掴ませた。


――ママはここに居ますからね

 朝日だろうか、窓から刺す爽やかな光が病室に落ちていた。沙月の胸に、大きな波が押し寄せる。今にも転覆しそうな不安定な足元で、沙月はただ、その大波に揺られるがままとなっていた。

 れいなと綾音は、そんな沙月のことはつゆ知らず、赤ちゃんを挟んで優しく笑いあっていた。



 今度は、沙月は自宅の居間に戻っていた。部屋が暗い。しかし、その理由はすぐに分かった。


「ハッピーバースディ!」


 卓袱台の上には、ロウソクが1本立ったケーキが見える。そして、赤ちゃんを抱えたれいなと、ビデオカメラを廻す綾音。


 ロウソクの火が揺れる。オレンジ色の灯りが、3人の顔を温かく縁取っている。沙月はわその空間から自分がひどく遠くにいるのだと感じた。まるで、窓越しにその世界を見ているかのように、決して自分は窓の外から出られない運命かのように。


 れいなに抱えられた赤ちゃんが、ケーキの生クリームを容易く指で摘まむ。それを見て「あらあら……」とれいなは笑った。


「ダメよ。ロウソクの火を消してからじゃないと」


 沙月の頬を涙が伝う。家族に囲まれ、愛情を注がれる――無理に手を伸ばしてでも欲しいとは思ったことはない。現に、沙月には綾音がいるではないか。叔母である綾音に不満を思ったことはないし、むしろ感謝もしている。母の日には綾音にカーネーションを贈った。授業参観や運動会、進路相談にも彼女が出席してくれた。


 それでも、沙月は決して手が届かない目の前の光景を、掴みたいと思ってしまったのだ。



 それから、沙月は様々な光景を見た。時代を跨ぎ、紙芝居のように場面が変わる。そのどれもに映るれいなの顔は、笑っていた。


 赤ちゃんが初めて寝返りを打った時。

 初めて笑った時。

 初めて立ち上がった時。

 初めて歩いた時。


 沙月は、流れる時間に身を任せた。そして、気がつけば再びあの病室の中にいた。


 暗い部屋だった。夜だろうか。光は枕元の読書灯だけ。ベッドで眠るのはれいなだった。その顔は前に見た時より痩せている気がした。


 コンコン、と静かにノックをして、綾音が入ってきた。手には缶コーヒーをひとつ。彼女が折り畳みのパイプ椅子を広げて座ると、その音で目が覚めたのか、れいなはゆっくりと顔を捻らせた。


「先生に言われたよ。転移してるって。このまま治療に専念すれば、5年だって」


 まるでロウソクの火のように、小さなため息ひとつで飛んでいってしまいそうな声だった。綾音は何も言わず、ただ、れいなの言葉に頷くだけだった。


 静寂が滝のように流れる落ちる。出来た滝壺には恐ろしく冷たい水が溢れている。


「ひどい親だ! って言われるかしら?」

「え?」


 れいなが綾音の手を握った。


「あの子が『ママ』って……初めてしゃべったのよ」


 れいなの声は震えていた。耐え難い運命の重さに押し潰されそうに、必死に何かと葛藤しているように、沙月には聞こえた。


「あの子を――沙月をお願いします」


 震える声のままで、それから、れいなはこう付け加えた。


「私を封印してください」

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