二階建てのこの家は、一階が喫茶パンチャと綾音の寝室である居間があって、二階に風呂場と沙月の寝室があった。居間では綾音が卓袱台で売り上げ勘定をしているらしく、相変わらず眼鏡のブリッジを親指でトントンと叩いていた。


「叔母さん?」

「ん? どうした? ライター君とはちゃんと話せた?」

「うん。それでなんだけどさ」

「お姉ちゃんのことが聞きたいの?」


 お姉ちゃん。綾音にとって沙月の母は姉にあたる。


「うん」

「そう言うと思ってたわよ」


 よっこいしょ、と綾音は立ち上がると、すぐ後ろに置いていた分厚いアルバムを卓袱台の上に置いた。


「これ、私たちのアルバム」

「アルバム?」

「そうよ。私とお姉ちゃんの小さいころの写真よ。探したけれど、たぶんお姉ちゃんが小学校のときくらいまでのものしか見つからなかったのよ」

 

 鶯色の、ざらざらとした分厚い表紙を、綾音は捲った。

 表紙の裏には、太い黒のマジックペンで「玲奈 綾音」と書かれていた。


 写真のほとんどには、小さな姉妹2人が映っていた。川辺で遊んでいる姿。ホテルのレストランでご飯を頬張る姿。中にはパンツ一丁やお風呂に入っている写真もあった。写真の中の2人は、みな笑っていた。


「びっくりしたわよ。あんたがお姉ちゃんのことを書きたいなんて言いだして」

「ごめん」

「それで? お姉ちゃんの何が聞きたいの?」


 アルバムを閉じると、綾音はその上に肘をついてじっと見つめてきた。その目には普段のおっとりとした雰囲気はない。自転車を教えてくれた「気合い」の目つきだ。


「えっとね、お母さんは高校を中退して東京に行っちゃったんだよね?」

「そうだよ。あんたと同じ高校だよ」

「え、そうなの?」

「うん。確か、あの時からもう牧場って言われてたわね」

「ふうん……じゃなくて、お母さんはどうして女優になったの? もともとお芝居に興味があったとか、どこかでスカウトされたとか?」


 ううん、と綾音は首を振った。


「そもそも、こんな田舎町にスカウトマンなんて来るもんかしらね」

「じゃあ、昔から女優に憧れてとか?」

「それも違うわ。ただの家出よ」

「家出!?」


 風鈴の音が、今度ははっきりと分かるくらい大きく聞こえた。


「もともと大学に進学するつもりだったんだけどね。シロコウを卒業したら、すぐ東京で働きたいってお父さんと喧嘩になってね。それで飛び出しちゃったの」

「うそ……でも、どうして」

「追っかけよ。あんた、西山にしやま俊哉としやって知ってる?」

「西山俊哉って、トッシー? 朝のニュースの司会をやってるひとのこと?」

「そうそう、トッシー。昔はアイドルでね。ファンも多くて、みんなゾッコンだったんだから」

「じゃあ、お母さんはトッシーを追いかけて東京に家出しちゃったってこと?」

「うん。昔は部屋にグッズやら写真やらが溢れてたのよ。苗字に東と西が入ってるから、私たちはつながる運命なのよ、って口癖みたいに言ってた」


 沙月は、なんだかバカバカしくなってきた。かつて自分と同じ年頃の母親が、なんだか幼稚に思えてしまったのだ。だからこそ、余計に腹が立つ。そんな女性を、どうして世間は囃し立てるのだろうか、と。

 

「はあ……それでお母さんはトッシーを追いかけて東京に行ったと。でも、それでなんで女優になったの?」


 東が西を追いかけて、東の都に行ったわけだ。


「そこまでは知らないもん。当時は携帯もなかったし、手紙を送ろうにも、お姉ちゃんが暮らす東京の住所も教えてくれないんだから」

「じゃあ、お母さんがどうして女優になったのか分からないの?」

「そうよ。私たちもテレビでお母さんが映って、その時はじめて知ったんだから。お祖父ちゃん、すごく怒ってたよ。嫁いでもないのに苗字も変えて、絶縁だ! って大変だったんだから」


 沙月はそれ以上、何も聞かなかった。聞けなかった。綾音も自分と同じ、母のことを知らなかったのだ。

 

「1日に2回も取材されて困っちゃうわ」


 綾音はそう笑って、立ち上がる。沙月も、もうこれ以上の収穫は無いと自室へ戻った。


 するとどうだろう。自室の襖を開けてみると、先ほど彼女が孝太と電話していた布団の脇に、ひとりの少年がいるではないか。


「え? だれ?」


 少年が振り向いた。見たこともない顔。彼はニコリともせず、ただじっとこちらを見つめていた。そして驚いたのは、その少年の頭のてっぺんに、よく見ると一本の小さな角があったことだ。


 そこからの沙月は素早かった。考えるより行動。すぐさま階段を駆け下りて、風呂場へ向かう綾音の腕を半ば強引に引っ張り、自室へと連れて行った。――が、そこにはもう少年はいなかった。


「あれ? さっきここにいたはずなのに……」

「もう、この老体に階段を登らせといて」腰に手を当てながら綾音が言う。

「見間違いじゃないの?」

「ううん、絶対ここにいたもん。目も合ったんだから!」

「どれくらいの子どもよ?」

「わかんない。小学生くらいの子」


 それから――

 言おうか言わまいか。しかし、沙月の口は勝手に動いた。


「その子、頭に角が生えていたの」


 今度こそ、綾音は芸人よろしく、腰を抜かしたかのように呆れた真似をしてみせた。


「と、とりあえず……今晩は一階の居間で寝なさいな」


 とある夏の夜の、奇妙な出来事であった。


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