31.野良の屋敷

 北を渡ってくる下風が、甲高い唸り声をあげて廃城を包み込む。

 外套がパタパタとはためき、露出した肌が凍てつくように冷えた。


「あそこに、本が……」


 胸に熱い思いが込み上げる。心なしか、口から溢れ出る呼気の色が濃くなった。

 実物を見ると思ったよりも大きい。下まで降りればもっと大きく感じるだろう。


 山を越え、国境を越え、ついに世界の果てへと降り立ったテオは、衝動じみた歓喜を持て余し、今この瞬間さえじれったくて仕方がなかった。すぐにでも本の元へ駆けつけたい一心で、靴の中で爪先が疼く。


「行こう」


 二人は地面に降り、背中を軽くしたタフィを伴って、緩やかに伸びた傾斜を慎重に降りる。時折足を滑らせて尻もちをつきそうになりながら平らなところまで降り、再びタフィを走らせて城の真下で立ち止まると、予想通りの圧倒的な存在感に言葉も出なかった。


 冴え冴えと輝く満月を背負い、渇いた風にさらされ続けて風化した外壁は今にも剥がれ落ちそうだった。

 夜の闇と月光色をたたえた廃城は、どこかもの悲しげですらあった。

 それでありながら、人が寄り付かない禍々まがまがしさに満ちた空気が、ぴりりと肌を伝わってくる。


 どっしりとした佇まいに漂う王者の風格。見れば見るほど、砂の大地広がる景観との不統一性が作り出す異質な景観にむず痒さを覚える。


 城を抱き込むようにうごめく闇。それは錯覚だろうか。城の足元に蹲って、近付く者を地の底へと引き摺り込もうとするかのように、何らかの恐ろしいものが棲みついている気がしてならない。……そんな風に思えてならなかった。


 美童は大扉の前でタフィを労い、ここで待つように言うと、テオと並んで城内への入り口に立った。相対した扉が彼らを威圧するように立ちはだかる。


 廃城が持つ死のような沈黙が辺りを漂い、深々と輝く月光は空気を凍てつかせるような冷徹さを帯びている。


 だいぶさびれてはいるものの、建築物としての様相を呈しているせいか、今も誰かが棲んでいるかもしれないとさえ思えた。


 背後には、ここまで二人を導いてくれた金の粒が点々と続いている。アプローチの隅に転がった瓶の中身はほとんど空っぽだった。


「さ、入ろうか」


 美童は瓶を拾い上げてから、重厚な扉に手をかけた。

 重々しい音を立てて、内側へと扉が開く。


 静寂に塗り固められた大気が、外から押し込まれた新鮮な空気によって大胆にかき混ぜられる。

 中は、沈んだ闇に飲み込まれた無の世界が広がっており、長らく人の手が入らず、廃墟独特の陰鬱いんうつな空気が漂っていた。


 高い位置に設えられた窓から僅かに差し込む月明りは、獣の爪に引き裂かれたようなボロ布と化したカーテンに遮られ、破けた個所から疎らに白い光が漏れてくる。細く落ちた月光の中に、微細な埃が浮遊しているのが白々と浮き上がって見えた。


 美童は外套のフードを脱いで城の中へ踏み込んだ。テオも同じように彼へ続く。

 足元の絨毯からは埃っぽい匂いが立ち上り、空気も乾燥しているせいか一呼吸する度に喉に不快感が絡まる。


 外観は立派なものだったが、内装は時の流れと共に朽ちゆく速度が速いようだ。


 蝶番ちょうつがいを軋ませながら扉が閉まると、闇と共に沈んだ冷気がふわりと舞い上がり、心なしか外よりも急激に冷え込んだように感じる。


 外界から遮断された城内で、深き闇が二人の客人を遠巻きに伺っている気配がひしひしと伝わってきた。


 時の流れから置き去りにされた空間。この中では自分も時間という渓流けいりゅうから逸脱した存在のように思える。


 極限まで人の気配の薄れた静謐せいひつな雰囲気。かつてここに人が棲んでいた頃にあった豪奢な景色は、とうの昔に朽ち果てて久しい。


 美童はその辺に転がった古びたランプを拾い上げると、側面の蓋を開けて、中に向かって短く呪文を囁く。


 空っぽだったガラスの中にじじっと音を立てて炎が灯る。

 薄暗い城内に二人の影がぼうと大きく浮かび上がって、傍の壁に仄暗い影を落とす。中には蝋がなく、持ち手の方に四角い穴がいくつも空いていて、そこから入ってくる酸素によって炎は燃え続けている。本来のランプの炎よりも明るく、その光を頼りに、改めて城内に視線を巡らせた時、何やら妙な気配に背後を取られた。


「わあ!?」


 反射的に悲鳴を上げ、前にいた美童の背中に体当たりをするように飛びついた。


「おっと」


 美童は軽くよろけながら振り返り、「どうした?」と少年の怯えた姿に目を剥いた。


「今、何かが、ぼくの背中を触りました」


「え?」


 美童は厳しい目つきでさっと周囲に視線を走らせた。数呼吸の沈黙ののち、テオの背中に触れたものの正体がわかると、恐怖に震える少年を励ますように言った。


「怖がらないで大丈夫だよ。ほとんど魔力を持たない下級の魔物たちだ。滅多に来ない客人に興味津々なだけで、君に危害を加えるようなことはしない。というか、僕がいるからそんなことは出来ないと思うけどね。今のは、ちょっかいを出されただけさ」


「か、きゅう……?」


 吐息とともに呟き、辺りに目をやる。

 吹き抜けになった二階の廊下からこちらを見下ろすいくつもの瞳、埃の積もった銀の甲冑の中に誰かが入っているようで、微かに息遣いを感じる。


 机や椅子といった家具の下にわだかまった黒い塊がうぞうぞと身動みじろぎし、真っ赤な口を開けて声もなく笑った。


 他にも、姿見えぬ視線や野次に背中を突かれ、嫌な汗が服の中を滑り落ちた。ひそひそと交わされる会話の内容はよく聞こえない。

 美童の言う通り、下級魔族たちはこちらをじっと注視するだけで、その場から動き出す気配はなかった。

 主人のいなくなった孤独の城は、今やたちの吹き溜まりと成り果てていた。

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