2. 悪魔の鏡〈1〉

「これからの予定を決めましょうか」


 軽やかに立ち上がった美童は、「こちらへどうぞ」とテオを部屋の入り口まで招く。何が始まるのやら考えもつかないテオは、言われるままに立ち上がって美童の後をついてゆく。


「こちらへ立ってください」


 と言われて示されたのは、部屋の扉のすぐ隣に掛けられた楕円だえん形の大きな鏡の前だった。

 立派な鏡だ。人が二人並んでも全身が映り込むほどの大きさで、見た目からその重厚感が伝わってくる。


 鏡面は曇り一つなく磨き上げられ、薄暗い灯りに照らされた室内の像を描いている。こんなに大きな鏡が置いてあっても、室内には一切の圧迫感もない。

 金色の縁に彫り込まれた百合の彫刻も優美である。世界有数の美術館にでも展示されていそうな桁違いの高級感が、この部屋のミステリアスで上品な雰囲気をより一層際立てた。

 だがそんな胸のときめきとは裏腹に、どうしてだかそこに立った瞬間、テオは背筋を氷の羽でくすぐられるような、縹渺ひょうびょうたる寒気を覚えた。


「まずは本のりかに目星をつけます」


 言って、美童はテオの隣に立つ。鏡越しに見る姿も感嘆の息を誘うほどに美麗だ。


が本の在りかについて何か教えてくれるかもしれません」


「奴?」


 美童はそっとテオの肩に手を置き、「怯える必要はありませんからね。奴はあなたには指一本触れることは出来ないのだから」


「え――?」


 彼の言葉の意味を理解できないまま、ふと鏡に目を向けると、朧気おぼろげだった怖気おぞけの正体が、目の前に生じた奇妙な光景と結びつく。


 ――!


 テオはあまりのことに声すら出せず、はっと息を呑んだ。

 鏡に映っていたのは、自分と、美しい魔法使い。それから二人の真後ろに、いるはずのない者の姿が映し出されていた。ひょろりと背の高い見慣れぬ男の姿。驚いて振り返るが、不気味なことにそこには男の影すら存在しない。


 もう一度鏡を見る。

 男がいる。

 身に着けた黒衣に映える病的なまでに青白い肌。

 耳の傍まで裂けた大きな口の中には、ずらりと並ぶ鮫のような歯が伺えた。

 彼が喉を鳴らすようにクツクツとわらえば、顔の左半分を覆い隠す重たい前髪がしっとりと揺れる。


 まるで、むくろを操る地獄の奇術師を彷彿とさせる不可解なその男は、何がお気に召しているのか、卑屈そうな目をさも愉快そうに歪めてにやにやと締まりのない顔で鏡越しに美童を見た。


「話はしっかり聞かせてもらったぜ。この俺を頼りたいって? いいよ、失せ物探しは得意だしな」


 男は尖った歯列の隙間から二股に分かれた舌をちらつかせ、鏡の中の美童に気安く肩を組む。

 美童は思いきり顔を顰め、不機嫌そうに後頭部を掻きむしった。見た目にそぐわない、些かはしたない所作だったが、テオはその人間らしい振る舞いに安心感のようなものを覚えた。


「この方は……?」と、テオが小声で訊ねる。


「僕の下僕です」


 魔法使いは猫や鴉を《使い魔》として使役するが、この妖しげな長身男もそうなのだろうか。人間……の姿形をとってはいるものの、得体のしれない何かをひしひしと感じさせる異様な雰囲気がある。

 彼は話の矛先が己に向かったことに気を良くして破顔する。


「いかにも! 俺の名はジフェル。気安く「ジフ」って呼んでくれてもいいんだぜ。今はこんなナヨナヨしたペーペー魔法使いの下僕という立場に落ち着いちゃいるが、ちからを取り戻した暁には、その細っこい寝首を掻いてやるのさ。最近の趣味は、美童こいつが買うだけ買って放置してた一面純白の千ピースジグソーパズルをひたすらに組むこと。退屈しのぎにはなるけど、如何せん真っ白すぎて何が面白いのかも未だに理解できんな」


 ジフェルは目が回るような饒舌を披露すると、長い舌を見せびらかすようにうねうねと波打たせた。言ってることの前半は物騒極まりないが、初対面の子ども相手に野心をひけらかした後に、趣味の話を無理矢理持ってくる様は、おしゃべり好きの子どものようで、一種の残酷さが垣間見えた。


「ファンフリート家は知ってるぜ。二代目の総代カルロスは有名だったからな。男みたいな名前の女でさ。一時は次代三大魔術師候補として名が挙がっていただろ? 辞退したようだが」


「よくご存じで」


 テオは、尚も続くジフェルの多弁に圧倒されながら頷いた。


 彼の言う通り、四代前のカルロス・ファンフリートは本を得た後に魔法使いの才能を開花させ、瞬く間にその名を世に轟かせた。丁度、時期が次代の三大魔術師候補選出と被っていたために、ファンフリート家は一躍、時の寵児ちょうじとなったらしい。


 三大魔術師は、マグノリア王クルスニクの下で世界の秩序を守り、と、ここマグノリアを繋ぐ扉を守護する任を与えられる強大なちからを持った魔法使いたちのことである。

 そんな名誉ある地位を、彼女がなぜ辞退したのかは謎のままだ。


「で、エート? 本の在りかだったな。任せな」


 ジフェルが自信満々に胸を反らすのと同時に、美童はかたわらに置いてあったナイフを手に取った。何をするのかな、と彼の動向を眺めていると、不意に剥き出しの刃を掌で掴み、、とスライドさせる。


 一瞬だけ顔を顰めた美童の白い掌から、真っ赤な血が滴る。それが床に零れる前に、隣のキャビネットの上の切子硝子キリコガラスを持ち上げ、中にポタポタと垂らす。


 悪魔との契約や、人知を超えたちからを借りることへの代償として血を差し出すのは典型的な方法だ。

 血の他にも髪や爪、場合によっては片眼を差し出すこともあると知ったときは恐怖による寒気を覚えたが、いざその場面を目の当たりにすると、肝が冷えて血の気が下がるのがはっきりとわかった。


 やはりこの妖しげ雰囲気のジフェルという男は悪魔なのだろう。

 悪魔を下僕につける魔法使いはいないわけではないが、元々の悪魔の性質たる狡猾こうかつさや、人間を堕落させる知性に長けた分、主人に必ず逆らわない、危害を加えないことを約束させるのが難儀である故、好んで使役する者は少ない。


 口が達者で、主人を前にしていずれは反旗を翻すなどと大胆なことを言う。この二人の間に従順な主従関係は存在しないのだろうか。


 美童は痛みを堪えるように一度深く息を吐きながら、切子硝子を元の場所へ戻して、傍らに畳んで置いてあった白いハンカチを掌にぐるぐると巻き付ける。白い布は目に痛いほどの鮮やかな赤に侵されてゆく。


「ご、ごめんなさい……」


 テオはほとんど無意識に、白と赤の境目に釘付けになりながらそう零していた。自分のために苦痛を伴って血を流してくれたことに胸が痛んだのである。

 脈絡のない謝罪に、美童は束の間きょとんとした顔を見せたが、その時、鏡の中がじわじわと像をほどき始め、二人の視線は鏡面の変化へ向かう。


「見えてきましたよ」


 鏡に映っていた三人の姿は掻き消え、金色の額縁の中には薄暗いもやに包まれた闇の世界が広がっていた。

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