2. 悪魔の鏡〈2〉

「森……?」


 テオは鏡の中を凝視ぎょうししながら呟く。

 闇夜にかすむ木の葉が、地上に降り注ぐ月明りを遮っているせいで、辺りは地の底を思わせる静寂しじまに塗り込められていた。


 生い茂る木の葉をかき分けて前進する視点は野鳥のものか。

 周囲の景色は早急さっきゅうに背後へと流れ、枝の間を器用にかいくぐる様は臨場感があって圧巻である。


 しばらくの間、不安定なカメラワークが続いたかと思うと、一気に上昇したらしく視界が開ける。

 降りしきる月光が鏡の表面をなぞるように反射し、晴れた世界を天高くから一望に収める。

 眼下には緑をたたえた広大な森がうずくまり、地平線の遥か彼方には、渇いた砂の大地が広漠こうばくと横たわっているのが見えた。


「砂漠?」と美童。


 野鳥は眼下に広がる森を通り過ぎると、そのまま砂漠の上を飛行した。

 暫くの間、目印も何もない、ただただ果てなく広がる地平線を目指して砂の上を滑空したかと思うと、不意に砂漠の真ん中に黒々と聳えるシルエットが見えてきた。


「お城」とテオが目を見張る。


 遠目に見える背の高い建築物。

 三つの尖塔。夜空に浮かぶ三日月を背負い、禍々しいオーラを纏った古びた城。

 アラビアンナイト風の寥廓りょうかくたる景色の中にぽつねんと佇むは、十二世紀頃にドイツに建てられたエルツ城を思わせた。


 エルツ城は、尖塔アーチやバットレスなどを特徴とするゴシック様式と、教会建築を中心としたロマネスク様式の混在した城で、一度も陥落かんらくしたことのない難攻不落の城として名高い。


 砂漠に囲まれた大地には些か不釣り合いな西洋風の古城は、静謐せいひつでありながら、さながら悪魔の根城を思わせた。辺りに人の気配がないせいだろう。冷たい夜気、なだらかな起伏を描いた渇いた砂、白い月光を半身に浴びてモノクロに染まる古城。不気味で、冷たさを感じさせながらも、そういった人を寄せ付けない雰囲気が耽美でおごそかな印象を抱かせる。


 ……と、ここで映像は途絶えた。

 鏡は元通り、テオと美童、その後ろにジフェルが、長身を軽くかがめるようにして立っている様子を映し出した。


「おい、これだけか。もっと見せろ」


 美童は不満そうに眉根を寄せ、テオにかけるのとは全く異なる乱暴な口調で言った。


「無茶言うな。これっぽっちのお前の血じゃ今のが精いっぱいだっての」


 ジフェルは不貞腐れたように肩を竦めた。


「あの砂漠のどこかに本があるということですか?」とテオ。


「そうですね。砂漠――おそらく、城の中でしょう」


 美童は考え込むように腕を組んだ。

 砂漠。この世界の大地の五分の一は砂漠だ。

 マグノリアは三つの大陸で形成され、その中で一番大きな大地を人間の住居区と定められている。人間が棲む大陸において、砂漠を抱えた国は一つしかない。それは――。


「俺、あのお城知ってますよ」


 すぐ耳元で声がして、テオは悲鳴を上げて跳び上がった。いつの間に入ってきたのか、宵一が片手に木のボウルを抱えて立っていた。中には丸いチョコレート菓子がこんもりと盛りつけられている。


「兄さん、いつの間に」美童も横長の目を丸くして驚いている。


「お菓子を探してきたのさ」


 宵一はテオの前にボウルを差し出し、「空茶からちゃで申し訳ありませんでした。甘いものがお嫌いでなかったらどうぞ」


「す、すみません、お気遣いありがとうございます」


 そう言い、テオはボウルを受け取りながら中身に目を落とした。首都・郊外に全8店舗を構える人気スイーツ店『ココア・デザート』の人気ナンバーワン商品、「もちもちショコラナッツ」だ。砂糖を練り込んだ白玉に、ミルクチョコレートをたっぷりコーティングし、細かく砕いたアーモンドをまぶしたデザインは、女性だけでなく老若男女をとりこにする垂涎すいぜんの一品である。もちろんテオも例外でなく、ファンフリート家を訪ねたお客さんが手土産に持参するこのお菓子が大好物であった。


「本当か、兄さん。あの城を知っているのか」


「ああ、本当だとも」


 三人は応接セットに腰を落ち着ける。


「詳しく話してくれよ」

 

 美童が促すと、鏡の中のジフェルも退屈そうにこちらの話に耳を向ける。

 テオはボウルをテーブルの真ん中に置き、ドキドキしながら宵一に目を向けた。


「以前にね、《砂漠の星》っていう小説を書いたことがあって」


「砂漠の星!」


 テオは、つい心の声が爆発したといったように、高い声を上げた。大いに聞き慣れた書名だったのである。二人の視線を独り占めしながら、テオは興奮したように続ける。


「《砂漠の星》を書いた? 今、そうおっしゃいましたか」


 発言者である宵一は「いやあ」と頬を赤らめながら首の後ろを撫でた。


「《砂漠の星》を知っててくれているんですか? 嬉しいな。あれは俺の出世作なもんですから」


「じゃあ、じゃあ、宵一さんは……」テオは乾いた唇を舐め、「伽羅風からかぜ レイジ先生!」


 伽羅風レイジこと、遊馬宵一は大きな背中を丸めながらぺこぺこ頷き、「そういうことになりますね」と照れ笑いを浮かべながら恐縮している。そういう顔をすると、拭い去れないと思われた野暮ったさを押しのけて、気安い友人のような心安さを覚えた。


 テオは以前読んだ小説、《砂漠の星》という冒険小説に大層感銘を受けた。クラレンスの本棚を物色しているとき、そのロマンチックなタイトルに惹かれ、夜通し読み明かしたのは今から二年ほど前か。


 魔法使いの少年がラクダに乗って、従者の剣士と共に、悪い魔女に攫われた姉を助けに行く物語だ。

 主人公の少年は魔法使いでありながら条件付きでしか魔法を使えない制限があり、長い長い旅路の中で出会いと別れを繰り返し、時に泣き、笑い、成長してゆく物語に夢中になった。


 小説を読んで泣いたのはこの時が初めてだった。特に、地平線の果てに現れるという幻の王国で姉と再会を果たすシーンは今思い出しても目頭が熱くなる。


「もしかして読んで頂けたんですか? いかがでした、砂漠の旅は」


 穏やかに微笑む憧れの作家先生を前にして、テオは一人で舞い上がってしまったことに急激に気恥ずかしさを感じながらも、興奮に上気した頬に手を当てながら、「とても、感動しました……」とミーハー心を腹の底へ押し込めて(もう遅いが)、「すみません、話の腰を折ってしまって」と、今度はテオがぺこぺことする番だった。


 話題は再び、砂漠の城へと向く。


「《砂漠の星》の執筆にあたっての取材旅行で行ったのさ。あのお城は人々に忘れ去られた町に佇んでいる。幻の王国とは言わないまでも、あまり俗世と交わらない雰囲気が気に入ってね。そう、場所はナランナ――マグノリアの果て、砂漠の果て――ナランナ国の果ての果てさ」

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