終幕

52. 幕引き

 テオは慌てて頭の上のレイスを引っ掴んで、顔をぐんと寄せた。


「レイスさん、今すぐ本の継承権をクラレンス兄さんに返してください! ぼくは一回だけあなたのちからを貸してもらいたかっただけなんです」


 と、泣きつくように言う。

 レイスは困ったように後頭部をガリガリ掻きながら、


『そう言われてもなぁ。もう継承の誓いは立ててしまった。ボクらは鋼鉄の契約の糸で結ばれてしまったのだよ。こればっかりはどうにもできん』と肩を竦める。


「そんな……」


 そこをなんとか、とぺこぺこ頭を下げ続けていると、隣にいたクラレンスが急に「あああああああああーーーー!」と天に向かって大声を張り上げた。


 テオはびくっと飛び上がって、兄の方へ目を瞬いた。

 空に輝く星々に紛れて一つの流星が地平線の彼方へ消えた。クラレンスの絶叫に驚いて落下したかのように。


 まさか怒りのあまりおかしくなってしまったのでは、とヒヤリとしたテオを、クラレンスは安心させるように肩をポンと叩く。


「いいんだ、テオ。……そうか、うん。そうだよな。ハハハ、そうなる気はしていたんだ。どうしてかな。わかっていたのさ。こうなることを」


「え?」


 クラレンスは「はあ」と肺の中の空気を吐き出すようにして大きく息をつきながら、目元に滲んだ涙を拭い、未だに言葉を無くしている弟に笑顔で向き直る。


「テオ、本はお前のものだ」


「だっ……」テオは目を見開いて首を横に振る。「駄目だ、それは駄目だ」


 ろくに言葉も出てこなくなるくらいに動揺する。

 クラレンスはテオが片手に抱えた本にそっと目線を落とした。


「ううん、テオ。それはもう、お前にしか扱えない。僕でもない、フィンでもヤンでもルカでもない。お前が本の主人なんだ」


「でも、先に見つけたのはぼくじゃない!」


「本の継承に重要なのは順番ではないだろ?」


 元は五人の兄弟の中で本の継承もとい、ファンフリート家を担う素質のある者が本を手にする権利があった。しかし、なかなか意見がまとまらないために、業を煮やした父が感情的になって本をこんなところに隠してしまったのが原因で、継承権決定のの論点が本筋からずれてしまったのが大きな問題だった。


【素質のある者】から、【先に見つけた者】。後者の方が単純ではあるが、テオにとってはなんとも強引で未来さきの不安な結果を齎すこととなった。そんな感情も、旅を通して徐々に変化しつつあったのだが、最終的な条件であった【先に見つけた者】の決まりを捻じ曲げて己が手にしてしまったことが納得できなかった。


「別にいいじゃないか。お前だって本が欲しかったんだろ?」


「そう、だけど」


 テオが力なく答えると、「じゃあ問題なしだね」と、弟の心情とは裏腹にクラレンスはあっけらかんとしている。


「どうして。兄さんは悔しくないの? ぼくに本を横取りされたようなものなんだよ? なんでそんなに……」


「言ったろ? こうなるような気がしてたって」


 クラレンスは視線を砂漠の彼方へやりながら続ける。


「お前は僕に対して気を使いすぎるきらいがあるね。他の弟たちがお前を蔑ろにしてきたせいかな。僕を神格化しようとしてる」


 その言葉にレイスは、黙ったまま頷く。


「先のことに不安があるのだとしたら、何も心配なんていらないよ。お前を一人にするわけないだろ」


 そう言ってクラレンスは、テオの手の上のレイスを見る。


「僕はお前の兄貴だ。末っ子一人に全部押し付けて知らんぷりなんてするわけない。フィンたちはどうするかわからないけど、少なくとも僕は、家督を継ぐテオをしっかりささえてやるよ。お前が約束してくれたようにね」


「約束……」


「ああ。あの約束だ」


 ――兄さんと、対等でありたい。


 テオの胸中に、兄を救ったあの言葉が蘇る。

 今度はクラレンスの方から歩み寄ろうとしてくれている。対等であろうとしてくれている。差し伸べられた手を、自分は掴むべきなのだろう。


『うん、是非そうしてやってくれ。君もファンフリート家の一員を誇れるだけの魔力ちからを持っているのだからな。それはそうと、君は喜ぶべきだぞ、テオ。憧れの兄さんと肩を並べられるだけの強い魔力を手に入れたんだからな』


  テオはまだ何か言いたげに口を閉ざしていたが、周囲の心を動かせるような上手い言葉が一向に思い浮かばず、押しの弱い性格が災いして思わず頷いてしまう。

 その瞬間、待ってましたとばかりにこの場に漂っていた緊張感が一気に弛緩する。


『今回は今までにない結末をもたらしたな。テオ・ファンフリート』


 レイスは真面目な雰囲気でテオを呼びかけ、手の上から今代の主人を見上げる。


『テオ、クラレンスも言っていたが、実を言うとボクは既に知っていたんだよ。君がボクを継承することを』


 レイスは目を閉じ、記憶を辿るように語る。


『見えるんだよ。ボクが仕えるべき主人の姿が。君らの父上の時もそうだった。三人兄弟の真ん中のローサリンダは自立した少年で、人の目のないところでコツコツ努力を積み重ねる質でな。大人しそうな性格して虎視眈々とボクを狙っていたわけだ。テオほどではないが、ああ見えて慎重で臆病者だった』


 そんな臆病者が頭に血を昇らせてあなたをこんなところまでやってしまったんですけどね、とは誰も言わなかった。


『そして、テオ』とレイスの夜空色の瞳が刹那、きらりと白く光る。


『君は今までの主人たちとは一味も二味も違う。意欲もなく、控えめで自分の意志を言うのが苦手。くくく、今までにはいないタイプだな』


 テオは困惑したように口を噤んでいたが、最終的に「でも、やっぱり……」と罪悪感に苛まれ、気持ちを切り替えられないでいる。


「テオ」と、クラレンスがやや厳しい口調で言うと、鋭い目つきで弟を真っ直ぐに見据える。


「僕に遠慮しているのか?」


 普段は穏やかに垂れ下がった目尻がきゅっと吊り上がっている。テオは、いつもの兄とは雰囲気の違う相貌に微かに滲んだ怒気に、束の間声を失った。


「今更僕が本を受け取ると思っているのか?」


 なんと答えるべきか分からず、口を閉ざしたまま否定も肯定もできなかった。


「いらないよ。僕は本を継承できるだけのちからはなかった。だから、ファーレに良いようにされてしまったんだ」


「そんな! それは兄さんの非じゃない!」


「それでも結果として、本はお前を。運命がお前を選んだんだ」


 普段のクラレンスからは想像もできない強情さだ。頭の回転が速く、弁舌にも長けた彼が相手ではとことん分が悪い。


「お前は何も気にすることはない。何一つ悪いところなんてない。僕はもう納得した。お前も納得するんだ。余計なことは考えず、自分が本の継承者になった、それだけを考えていればいい。僕に罪悪感を感じる余裕なんてないくらい喜んでいればいい」


「でも兄さんは……」


 本だけは誰にも渡したくない。そう思っていた。


「それは孤独だったからだ」


「孤独?」


「うん。もし自分がこれからも孤独で、誰も隣にいてくれなかったら、僕は本に縋ることしかできなかっただろう。だから意地でも自分の物にしたかった。でもお前が僕と対等でいてくれるって言ったから、本に対する異常な執着はどこかに行ってしまったよ。――もう一度言う。テオ、本はお前のものだ。これからのこと、他の兄弟たちの反応が気になるなら、そんなことは考える必要はない。堂々としているんだ。僕が何としてもあいつらを説得して見せるし、後から文句なんて言わせない。自分がここへ来るまでに成してきたこと、心に誓ったことを忘れずにいれば大丈夫だろ?」


「クラレンス兄さん……」


 様々なことが脳裏を駆け巡る。

 日々の後悔。ああすればよかった、こうすればよかった。孤独の内に秘められた願望が己によってかき消されていた日々。


 真ん中の兄たちの顔。……おかしい。今思えば、フィンもヤンもルカも、記憶の遥か彼方――テオがようやく言葉を覚え始めたころは、あの三人もよく末弟を構っていた。遊んでくれるお兄ちゃんだった。傍から見れば、仲の良い兄弟同士であったはずなのだ。それがいつからか変わってしまった。


 そんな意地悪な兄たちの顔を忘れられた今回の旅路が、記憶の新しい一ページを物語のように彩る。

 不安と恐怖、そして何より、冒険小説を読んでいるようなドキドキと鮮烈な風景は、一生忘れることのできない思い出だ。


 昨日までの自分が頭の中でテオを見つめていた。

 暗がりの中にいる相変わらずの卑屈な顔、その視線は羨望に満ちていた。今、ここにいる自分を羨ましいと感じている自分の顔がそこにはあった。

 昨日までの自分が夢にも思っていなかった己がここにいる。夢にまで見た魔法使いとしての素質を持った自分が、ここにはいた。


 過去の自分のために、突き付けられた現実を受け入れなければならない。受け入れなければ、これもやがては後悔へ繋がることになる。


「……うん」


 この時、テオはついに本心から頷くことができた。

 不安の一切合切が消えたわけではなかったが、兄の真摯な言葉と振る舞い、そして過去の自分との決別のきっかけをふいにすることの方が恐ろしかったのだ。


 クラレンスはようやく肩の荷が下りたといった顔でレイスに向き直り「テオをよろしくお願いします」と深く頭を下げた。

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