44. 精神世界の窓

「いてて……」


 意を決して穴の中へ飛び込むと、想像していたよりも地面が遠いところにあったせいで受け身をとるタイミングに齟齬そごが生じ、強か尻もちをついた。


 打ち付けた尻を撫でつつ、テオはゆっくり立ち上がると、不安気な面持ちで今自分が下りてきた虚ろを見上げた。そこにあるのは、何も映すことのない暗黒の満月。深淵こちらを覗き込む巨大な悪魔の目のようで気味が悪い。

 人間が一人通れるくらいのささやかな穴は、強力な光の魔法さえも吸い込んでしまいそうな、一点の闇となってそこに浮いている。


「本当にここが兄さんの心の中に通じているのかな」


 呟き、周囲をぐるりと見渡す。

 果てのない草原が広がっている。青々とした草の合間にほんのりと蛍のような光がぽつぽつと点在しているおかげで、足元への不安は薄い。


 空は、灰色の八重霞が雲のように漂っている。彼が通ってきた穴以外の天上は仄かにグレーがかった光に満たされているので暗闇を恐れる心配はなかった。

 その他には、緑の香りをふんだんに含んだ大草原と、それを割るように蛇行した一本道だけがこの空間にはあった。

 朝靄に包まれた世界――この世には存在しない、の風景を思わせる景色だった。


 辺りはしんと静まりかえり、無音が引き起こす「無」という耳鳴りが聴覚のすべてを支配した。

 自分が動かない限り、この世界に音が生まれることはない。


 なんと美しい景色だろう。幻想的な雰囲気に呑まれて、己の目的を忘れそうになる。


 意気込んで乗り込んだはいいが、世界と切り離された孤独の場所に取り残されたのでは、やはり恐怖心がそろそろと鎌首を擡げてくる。


「ええい、ここまで来て弱音を吐くな」


 テオは忍び寄る弱気を追い払うようにぺちっと両頬を叩いて己を鼓舞すると、目的地へと伸びるほの白い一本道を睨み、足を踏み出した。


          ・

          ・

          ・


 何度も喉元を行き来する呼気が、舌根に血の味を滲ませる。己の激しい息遣いが耳障りでならなかった。


 テオは死に物狂いで、終わりの見えぬ目的地を目指してひた走っていた。

 既にどれほどの時間が経過しただろう。時折立ち止まって呼吸を整えながら、心がいてじれったく思うのとは対照的に、肉体は限界を受け入れ始めている。


『できるだけ早く』という美童の言いつけを守り、体力の限界を目の当たりにしても、五秒以上立ち止まることを良しとしない。

 上がらなくなってきた足を引きずるようにしながら、確実に前だけを目指して進む。


 だが、酸素をいくら吸っても満たされることがない。

 全身が大量の酸素を欲している。

 そんな状態でも、疲れを感じている暇はなかった。何度足をもつれさせ、地に膝を付こうともすぐさま立ち上がり、決して音を上げることを許さない。


 普段から運動はしない。いつもならすぐに挫けて足を止めた。けれど今は立ち止まってなんていられない。ほんの一刹那だって、クラレンスの苦しむ声を聞いていたくなかった。


 今も聞こえる。クラレンスのすすり泣く声が、どこからともなく聞こえてくる。

 テオが歩みを止めない理由はこれだ。臆病で自信がなく、後悔ばかりを積み重ねてきた今までの人生を顧みて、このままじゃいけないと思った。


 ここでクラレンスを助け出すことができなかったら、後悔だけでは済まない。一生立ち直ることのできない罪悪感と、深い悲しみを背負って生きてゆくことになる。


 今まで怯えて生きていた分を、今この場所で取り返したかった。


 そら、今だって。姿無き兄の、涙に濡れた声がテオに助けを求めていた。

 あのクラレンスが。弱さを見せず、他の兄弟たちとさして歳も変わらないのに、頭がよく、人柄もよく、一番冷静で大人びていたクラレンスが。


 ――そんな兄さんが、末っ子の……落ちこぼれのぼくに助けを求めた。


 クラレンスは並大抵のことは一人でこなした。

 故に、いつも一人だった。


「兄さん、クラレンス兄さん! 絶対に助けるから!」


 泣いて縋るような叫びが、闇の空に高く木霊する。

 クラレンスの応えが返ってくることを期待していたが、あとには静寂しじまばかりがテオの耳を聾した。


 しかし、いくら声を大にして自分を焚きつけようとも、普段から体を動かさない人間が永遠と走っていられるはずもない。

 ついに草に足を取られて転倒すると、立ち上がりたいという自分の意思に反して体は一向に言うことを聞かなかった。


 指先すら動かせない倦怠感と、一刻も早く立ち上がらなくては、という焦燥感が頭の中で暴れまわる。

 青い草を噛みしめながら激しい嘔吐感を堪えていると、様々な感情が脳裏を去来した。


 ――ねえ、兄さん。いつになったらぼくの前に現れてくれるの? ぼくと兄さんの距離はこんなにも離れてしまっているの? 血の繋がりは、こんなにも頼りないものなの……?


 喉が千切れるような苦痛を無理矢理飲み下し、テオは声を上げる。


「どこにいるの、兄さん。返事をして!」


 心が折れかけながらもなんとか起き上がったその先に、こちらに背中を向けて小さくしゃがみ込んだ人の姿が見えたのはその時だった。

 泣いているのか、頼りなさげな若い背中が小さく震えている。

 テオは、それが兄の背中だとすぐに分かった。


「兄さん!」


 テオはよろめきながら立ち上がると、重い足を引き摺るようにしてクラレンスの背中に駆け寄った。


「兄さん、ぼくだよ。助けに来たよ」


 クラレンスはびくりと肩を揺らし、怯えたように振り返った。その顔を見たテオも、思わずと言った様子で言葉を失う。


 泣き腫らした真っ赤な目、薄桃色に染まった丸い頬に涙の痕が光り、小さな唇から覗く細やかなが、未発達の顎にぎゅうぎゅうに収まっている。


 まるで幼子のような相好もさることながら、眼前に蹲る兄の姿はテオよりも遥かに幼く、顔つきも物心がついたばかりの子どもを思わせた。


 テオは明らかな違和に声を失ったが、気が付かないふりを決め込んで言う。


「さ、行こう。もう大丈夫だよ。兄さんがここから出られれば、あの男ファーレをこの体から追い出せるんだ」


 クラレンスは、怯えたように目線を震わせた。否、怯えとは少し違う。もっと鋭利な――警戒心だ。


「どうしたの? ここから、早く出よう」


 クラレンスは涙を飛び散らせながらブンブンと首を横に振った。


「え、なんで? 早くしないと。美童さんたちが時間を稼いでいてくれてるんだ」


「やだ、やだ」クラレンスはぐずるように言った。


「どこか具合でも悪いの?」


 テオは焦りを押し殺して訊ねる。詰問調に近くなったそれを、クラレンスは責められているように受け取ったのか、膝に額を押し付けてしくしくと泣き出す。


 狼狽しつつもテオは、足早に兄の傍らへ膝をつくと、「とりあえず行こう。歩けないのならぼくがおんぶするから」と、弱々しい肩にそっと触れる。クラレンスはその手を弾くように拒否した。


「やだ! 、ここにいる!」


「……」


 困惑したテオはいよいよ言葉を失ってしまう。

 まるで夢を見ているような心地だった。

 すぐ傍にいるのは間違いなくクラレンスであるはずなのに、駄々っ子のようにすすり泣く姿に、外見以外の兄の面影は微塵も見受けられなかった。


「兄さん、どうしちゃったんだよ……」


 テオは茫然と、クラレンスの背中に縋りつく。

 彼がこんなに我儘わがままを貫き通す頑なさを見せたのははじめてだった。むしろ普段は、弟たちの我儘を「仕方ないな」と言いながら、苦笑気味に受け入れてくれた彼である。


 と、テオはふと思いいたる。


 ――ここは兄さんの精神世界心の中。まさか、この兄さんは……。


 目の前にいる兄の姿こそが、の兄の姿なのではないか。ここから出たがらないクラレンス。それはきっと、日頃から押し殺してきた本来の姿に近いものなのかもしれない。そう思った。


 動揺を隠せないテオは、気が遠くなるような思いで、


「お願い、立って? ここは危ないかもしれないよ」と、再び彼の肩を揺する。「今はここを出ることだけを考えよう」


「嫌だって言ってるだろッ!」


 クラレンスは癇癪かんしゃくを起して弟の手を振り払った。その拍子に、大事に抱えていた何かがバサリと下に落ちた。


 本だ。ファンフリート家の先祖たちが代々受け継いできた魔法書。

 クラレンスは「あっ」と声を上げて本を拾い上げると、ばっと駆けだしてテオから距離を取る。

 

 テオは呆気にとられ、伸ばしかけた手を宙に留めていると、束の間の沈黙を破るように哀願を帯びた声で言った。


「ねえ兄さん、もしかしてぼくたちは、兄さんに無理をさせすぎてしまったのかな」


 やさしいクラレンス。

 頭のいいクラレンス。

 頼りになるクラレンス。

 なんでもできるクラレンス。

 全てにおいて完璧と称された兄・クラレンス。

 そんな彼に、怠惰なぼくたちは揃いも揃っておんぶにだっこ。


 クラレンスは胸に本を抱きかかえながら、弟の言葉に懊悩する。

 兄の態度を見て、テオはその考えが正鵠を射ているのだと悟る。

 テオたち兄弟からだけでなく、家族、さらには学校での過度な重責や期待から逃れたかったはずだ。


 きっと、それがクラレンスの本心――。


 どうしたらいい……。戸惑うテオはしゃがみ込むクラレンスの胸元に目を止める。

 本。

 これは本物だろうか。現実世界とは別の空間にある精神世界にも持ち込めているのか。


「ねえ、兄さん。その本は今、扱えるの?」


 クラレンスは過剰にびくつくと、固く口を閉ざし、より一層きつく本を抱きしめた。テオがほとんど無意識に本へ手を伸ばしていたからだろう。しかし今、彼の頭の中には、漠然とした疑問が生じていた。


 なぜ、こんなにも必死に本を守っているのだろう。


 その疑問に帰ってきた答えはこれだ。

 クラレンスはまだ、

 もし正式に継承が完了しているのであれば、本は主人にしか従わない。主人以外に本のちからを扱うことは出来ない。

 契約がなされたのなら、本は誰が手にしようとそのちからを発揮しようとはしないはず。自分の手から本が離れようとも、本は自らの意思で主人の所へ戻ってくるのだ。

 それなのに、ここまで過剰に本を手放したがらないのは少々不自然ではないだろうか。


 ――そうだ、きっとあの時、継承は完了していなかったんだ。だから兄さんはぼくに本を渡したがらない。


 テオは展開される思考に従って、進退両難しんたいりょうなんを極める状況の打開策を練り上げた。


 なんとかして兄さんの手から本を奪えないだろうか。僕が本を持ってこの場から逃走を図れば、必ず兄さんは追いかけてくる。そうして出口まで誘い出せればいいのだけれど。

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