43. クラレンスの声

 毒蛇ヴィペールがやられた。

 圧倒的な存在感を誇る巨体は無残にも切り刻まれ、悲鳴一つ上げる暇さえ与えられず、主人の目の前で消滅した。


 目にも止まらぬ斬撃のモーション――否、ファーレは身動ぎ一つしなかったように見えた。

 あれが下級のなせる技か? そんなはずはない。奴はかつての力を取り戻しつつある。クラレンスの体を介して、虚の地で暴力と狂気に物言わせ、多くの魔族たちの頂点に君臨せしめた古の力を手中に収めつつあるのだ。


 なんと末恐ろしい。この死の魔法使いをも恐怖させるほどの魔力ちから。柄にもなく表情を曇らせたキティは、己のプライドまでもが細切れに引き裂かれた屈辱に怒りをあらわにしないではいられなかった。


 支えを失ったファーレはそのまま高速で地上へ向かって真っ逆さまに落ちてくる。このまま何もしないつもりなのか、ファーレは背中を地面へ向けた状態でぴくりとも動かない。彼の全身を覆う防御壁がどこまで頑丈にできているかはわからないが、もし怪我でもしたらクラレンスの親兄弟に合わす顔がない。急いでティーグルを向かわせるも、それよりも落ちてくる速度の方が速い。


「行け!」


 言い、美童がファーレの方を指さす。すると、使い魔の鴉たちが一斉に飛び立ち、空中でファーレを受け止めた。夜の下を無数の鴉たちが漆黒のざわめきとなって羽ばたく。まるで天上から降り立った天使のように、ゆっくりと地上へ足をつけたファーレは、ニコニコと愛らしい笑顔を張り付けながら、飛び去る鴉たちにひらひらと手を振った。


「人質取ったつもりかよ」


 キティは激しく舌を打ち、ティーグルに囁くように言う。


「行け、ティーグル。外側の膜を壊すことだけに集中しろ。だが、自分の身が危ないと思ったら一度引け、いいな?」


 十分に飼いならし、使い魔としての存在以上に情が生じていたヴィペールを失ったキティ。そんな主人の心中を察し、ティーグルは強く頷くように顎を引き、再度怨敵へ直進した。


 砂の上に立ち尽くしたファーレは、砂塵を上げて猛然と向かい来る獣の巨躯に一切怯まず、あまつさえ、悪戯いたずらを楽しむ少年のような一種の狂気を感じさせる歪みを瞳の中に描いていた。


 ティーグルは幾度となく防壁にぶつかってゆく。その度に爪を立てようとも、牙を突き立てようとも、薄い膜は青い触手のような火花を散らすばかりで傷一つつかない。


 やがてティーグルの爪や牙から鮮血が滴り、吐き出される白い息も荒く、妖獣の体力も限界を迎えつつあった。

 気高いホワイトタイガーの痛ましい姿に、テオは下唇を噛みしめ、我慢の限界とばかりに兄の前へ飛び出す。


「兄さん、もうやめて! ぼくの声を聴いて」


 ファーレはうんざりしたように頭を掻きむしると、興が覚めるだろうが、と声を荒げる。「うぜえな。何度言っても理解しねえ馬鹿は嫌いなんだよ」


「クラレンス兄さん……」


 その時だった。テオの耳に、微かにノイズが混じった弱々しい声が届く。


 テオ……テオ……


 クラレンスの声だ。いつもの溌剌はつらつとした声ではなかったけれど、聴き間違えるはずもない、兄の声だ。

 泣いているのだろうか。時折、洟をすする音が聴こえる。

 しかし目の前のクラレンスは、ファーレの狡猾な表情を湛えたままだ。弟の名前を呼んでもいなければ、涙に濡れた声も聞こえない。ただ耳の奥に響くような、確かであれど曖昧な訴えが頭の中を響いてやまない。


「兄さん、泣いてるの?」


 兄の泣く姿を最後に見たのはいつだろう。テオの知っているクラレンスは、笑顔や困った顔は見せるが、弟たちの前で涙を落とすことは決してなかった。

 どうしてそんなことができよう。彼はまだ、十六歳の子どもであるというのに。


 テオは声の在りかを探して首を巡らせる。

 どこかにいるはずなのだ。身体を奪われたクラレンスの心が不安を訴えて泣いている。ほら、また聴こえた。


 ごめんね、テオ……僕は、兄さんは――本当は……


「兄さんの声がする」


 吐息のように漏れた呟きに、美童が反応する。「何だって」


「兄さんの声がするんです」


「クラレンスの?」


 美童はファーレの方を見た。「今も聴こえる?」


 テオは刹那、耳をすませるようにして口を噤み、「ええ、聞こえています」と強く頷く。


「僕には聞こえない。君にだけ聞こえているのか」


「そのようです」


 テオ、聞いてくれ。本当は、僕は――……、……、………………。


「また聞こえた。でも、なんだかよく聞き取れない……」


 途中のところから妙に聞き取りづらくなる。まるで水底から響いてくるような不明瞭な声だ。


「兄さん、どこ! 大丈夫なの!?」


 ――……。


 声はすれどもどこから聞こえるのか、何を言っているのかわからない。キティは美童のところまで後退ると、こそっと耳打ちする。


「テオは何か聞こえているのか」


「ああ。どうやら彼には、クラレンスの声が聞こえているらしい」


「俺らには聞こえないよな。テオに訴えるの声か」


「おそらく、そんな感じだろう」


 独り言のように呟いた美童は一刹那、沈思するような表情を見せたかと思うと、いつにも増した真剣な顔で言った。


「血の繋がった弟にしかきこえない声――精神の声……」


「心当たりがあるのか」


 キティの問いに、美童ははっきり頷く。


「クラレンスを助ける方法、思いついたぞ」と、場の空気を一転させる。キティもテオも期待の籠った眼差しを美童へ突き付けずにはいられなかった。


「ほ、本当ですか」


「ああ。だけどこの方法はテオ、君の頑張りがモノを言う」


「ぼくの……」


「そうだ。できるか?」


「もちろんです」


 テオは一秒でも惜しいとばかりに間髪入れず頷くと、焦れたように美童に詰め寄る。以前までのテオであれば、こんなにすぐにうん、とは言えなかっただろう。


「ぼくは何をすればいいのですか」


 今にもファーレが動き出すんじゃないかと気が気でないテオは、早口に言う。


「今クラレンスは、ファーレに身体の主導権を乗っ取られている。じゃあ、本来のクラレンスはどこにいるのかと言うと、わかりやすく言うならば、精神世界だ。身体の内側、心の奥底だ。クラレンスは肉体の奥深くへ閉じ込められている。彼の声が聞こえるということは、間違いなく意識はあるのだろう。それなら、僕の魔法でなんとかできるかもしれない」


「兄さんは精神世界そこから出られない?」


「そうだ。僕らには聞こえないクラレンスの声は、君の精神世界を伝って聞こえている。閉じ込められた彼がそこから出ることが出来れば、表層を乗っ取っているあの悪魔を、体の外へはじき出せるかもしれない」


「どうやってクラレンスを呼び戻す?」とキティ。ファーレの気を逸らすために魔法の乱発に努めながら。


「キティ、お前はそのまま奴の注意を引いていてくれ。僕は今からをつくる」


「精神世界の影だと」


 キティは瞠目し、美童を振り返る。

 精神世界の影――それは、実体のない別次元の世界への入り口を開く上級魔法だ。複雑な呪文と深い集中力を要求されることから、この魔法を使用できる者は決して多くない。魔力の消費量も多大で、できるならこの魔法は使いたくない人間が大半だった。


 キティは苦い顔つきになり、ティーグルとファーレのぶつかり合いに目を向けたまま言う。


「クラレンスがこうなったのは他でもない俺の責任だ。無傷で助け出さねば魔法使いの名折れ。借りは返す。任せていいか。俺が死ぬ気で時間を稼いでおく」


「ああ」


 いくらキティが気を引いているとはいえ、長いこと美童が怪しげな雰囲気を醸し出していては、やがて勘付かれるだろう。


 美童は内心の焦りを押し殺しながらテオを傍に引き寄せ、怪しまれないように平静を装いながら呪文を唱え始める。


「テオ、僕の傍に」


「はい」


 テオは胸に動悸を抱き、美童の唇が紡ぐ呪文に耳を傾けた。古い言葉の旋律が夜気を漂う。少し早口。しかし、耳に心地の良い響きだ。このような状況でなければ彼の声は寝物語を語る高名な詩人のようだと聞き惚れていたかもしれない。


 なるべく唇を動かさず、声を潜めて呪文は編み込まれてゆく。


 ふいに美童の声が途絶えると、水底から漏れた空気が泡となって水面で破裂するような音が聞こえた。

 視線を音がした方――つま先に落とすと、頭上の空よりも深い闇色の円形の水たまりが、砂漠の砂をじわじわと濡らしていた。

 それはやがて、人一人がすっぽり落ちてゆけるほどの黒穴へと変貌を遂げ、そちらを覗き込む鯱張しゃちほこばったテオの顔をくっきりと映し出した。

 怖いもの見たさに、思わず身を乗り出すと、吸い込まれそうな深き穴倉がこちらを覗き返してくるのを見て、ゾッと背筋を冷やす。


「僕は今から君をこの中へ落とす」美童が正面を見つめたまま言う。


「いっ!?」


 予想はしていたが、随分と物騒な物言いにテオの口元が引き攣る。


「怖がらなくていい。潜り込めばすぐに一本の道が見えてくる。その道を進め。どれくらいかはわからないが、道の先にクラレンスがいるはずだ。君はクラレンスを連れて、来た道を戻ってくるんだ。できるだけ早く」


「もし、連れて帰ってこられなかったら……?」


「不帰の客だ。クラレンスの精神体は彼の体の中から消滅する」


 テオは無情な結末を想像して、喉を上下させた。


「……ぼくにできるでしょうか」


「君にしかできない」


 美童は励ますように少年の肩を叩き、「さ、行くんだ。あいつに悟られる前に」


 テオは不安そうに胸に手を当てながら、頷く。


 美童は刹那、泣きたいのを堪えているかのような複雑な顔で眉根を寄せ、「頼んだ、テオ。なんとしてでも、クラレンスを肉体の表層へ引っ張り上げるんだ」と言った。

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