42. 王の中の王
キティの重い声が魔法へアクセスする。
辺りに微風が吹いた。永遠の夜の世界を渡る
傷口から血が手首を伝い、指の間から黒い炎のようなものが噴き出す。めらめらと燃え盛る闇の揺らめきは、彼の手から滑り落ちるとなおのこと激しく火を噴き、視界全体を昏く塗りつぶした。まるで煙幕のように周囲を覆いつくした闇は、薄い雲越しに降り注ぐ仄白い月明りを容赦なく呑み込んでゆく。
傍にいたテオと美童も目を眇めながら、暗がりの向こうを見つめる。
温度のない炎は大量の砂塵を舞い上げながら、まるで世界を無に塗り替えようとでもしているかのように激しく燃え上がった。
その時だ。
闇の炎が勢いを鎮め、視界を覆う暗がりが捌けてくると、中から白銀の毛並みに包まれた大きな獣が現れた。
豊かな毛並みに交じる黒い模様。首の周りはことさら白く毛足が長い。
大きな足、大きな口の中に整列する尖った歯の合間から、地を揺らす低い唸り声がこぼれる。吊り上がった青い瞳を縦に割る細い瞳孔は紛れもなくネコ科のものだ。
新たに吹いた冷たい風が残存した靄を薙ぎ払うと、明くる雲の裾から月明りが差し込み、その全貌が夜半の
ホワイトタイガーだ。それも限りなく大きく、本来の成獣ホワイトタイガーと比べても二回りほど大きい。
ずらりと並んだ牙の間から白い呼気が流れ出る。
降り注ぐ銀の微粒子が、呼吸するたびに波打つ背中の毛に反射してきらきらと輝き、圧倒的な存在感と威圧感が畏怖の念を誘い出す。
ああ、なんと美しい獣。王の中の王。白い月の光を浴びた獣の身体は人々から感嘆の息を誘う。現にテオも、自分が陥った危機を刹那ばかし忘れて、眼前の気高き獣の王に目を奪われないではいられなかった。
彼の掌を貫いた爪は、キティが彼を調伏したときに契約の証として授かったものだ。彼を必要とするときにキティの血と獣の爪を媒介にして召し出すことができる。
ホワイトタイガー――名をティーグルは、夜天に向かって高々と咆哮する。それはさながら、地上へ降り立つ美しき己の姿を世界へ知らしめるための一声にも思えた。
大気がビリビリと揺れ、ファーレの表情にも感嘆と驚愕、謎めいた笑みが張り付く。戦うことに快楽を見出す戦闘狂いの戦士がする顔だ。
「行け」
『承知』
激しく放たれた主人の命令に、ティーグルはファーレ目掛けて突進した。
地上を駆ける肉食獣の足は砂の海をものともせず、ココア色の飛沫をあげて物凄い速さで主人の敵へとびかかる。
しかし、ファーレは余裕顔のままだった。ティーグルの牙が、少年の名残を湛えた悪魔の眼前で夜気を割いた瞬間、バチッという破裂音と共に見えない何かに弾かれ、反動で高く宙を舞った。だが、さすがは猫科。宙でくるりと体勢を立て直すと、華麗に地上へ着地する。
『奴は防御壁に護られています』
ティーグルがグルルと喉を鳴らしながら言う。
「畜生。チート使いやがって」
キティが舌を打つと、
「お前のティーグルでも壊せないのか」と美童。ティーグルはキティの使い魔の中でも指折りの強度を誇る。
「できるか?」
主人の問いに『やってみましょう』と心強い答えを出す。凛々しく気高い姿と、主人の砕け気味の口調がアンバランスでありながらも、気の置けない友人同士のような雰囲気があった。
「頼むぞ。あの膜を壊さねえと、クラレンスの意識を表層に引きずり出すこともままならないだろうからな」
『承知』
ティーグルは再び駆け出し、スノードーム型の防壁に護られたファーレに牙を剥く。ファーレは反撃を仕掛けるでもなく、薄ら笑いを浮かべてティーグルの攻撃を壁の中から見上げていた。
鋭利な鎌のような爪が防御壁の表面に深く食い込むも、液体に向かって攻撃でもしているみたいに傷一つつかない。それでいて柔軟さを味方につけた強靭な護りの姿勢に、またしてもティーグルは弾かれる。
「兄さんの意識はあるんですか?」
そう言ったテオの声は不安に打ち震えていた。
「わからない。恐らく、奴に肉体を乗っ取られた時点で、クラレンスの意識は昏睡状態にある。そうでなくとも、表に出ているのがファーレだから、自分の意思で声を出すことも動くこともできない」
言いながらキティは、懐から何かを取り出した。ジップのついた透明の袋の中に何かが入っている。ボロボロの半透明のビニールのようなものだ。少し黄味がかっていてカサカサしている。表面には鱗状の模様が薄く刻み込まれ、どこかで見たことあるな、と思っていたら、それは蛇の抜け殻だった。
キティはそれをそっと取り出し、握りしめて粉々にすり潰すと、「
ぱらぱらと崩れた破片が黒い炎となって激しく燃え上がり、キティの足元から全身を包むように絡みつく。
黒い炎はたちまち巨大な蛇の姿となった。胴回りは大人が両手で抱き込んでも腕が届かないほど大きく、全長十メートルはくだらない。
列車の中での一件でもそうであったが、〈死〉の世界と〈蛇〉は切っても切り離せない因縁のようなものがあるように思える。
毒蛇は主人の耳元でちろちろと細い舌を出したりしまったりして、命令を下されるのを待っている。
キティは毒蛇の首元を撫で、簡潔に命ずる。
「行け」
ヴィペールは巨大な身体に似つかわしくない俊敏さで、毒を含んだ牙を剥いて飛び出す。主人の命じたいことは言葉がなくてもわかる、とでも言うような迷いのない姿勢。
ティーグルとの連携もばっちりだ。大蛇はファーレを包み込んだ丸い膜ごとファーレに巻き付くと、冷えた夜に向かって一気に上昇する。急速に遠退いて行くファーレの様子は地上からはよくわからなかったが、この状況では余裕ではいられまい。
「俺の
キティが
――グルルルルル……!
その時、ティーグルが大地に爪を立ててヴィペールに向かって吠える。
『今すぐそいつを離せ、
その瞬間、大気がびりびりと激しく揺れた。それは上空から驟雨のように降り注ぎ、錆びた金属音を思わせる悲鳴だった。
ヴィペールの胴を幾筋もの線が真横に走る。それは、瞬きほどの刹那の出来事だった。
上を見上げたすべての瞳を恐怖が支配する。
「ヴィペール!」
キティが悲鳴じみた声を上げたその刹那、ヴィペールは胴をぶつ切りにされ、黒煙となって霧散した。
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