45. 彼の本音
クラレンスは絶対に本を手放そうとはしないだろう。なぜか彼は異常なほど本に執着していて、頑なな態度を崩そうとしない。その理由を考えてみたけれど、それはまだ仮説の域を出ないままだ。
様子のおかしいクラレンス。一刻も早くここを脱しなければならないというのに、その頑なさで事がスムーズにいかない。
もしテオがクラレンスから本を奪ったら、彼はムキになって取り返そうとするだろう。それこそ、地の果てまで追いかけるような剣幕で。
言葉で「貸して」とせがんだところで、素直に応じてくれるとも思えない。むしろ、より警戒されて厄介なことになりそうだ。
テオがぐるぐると思考を巡らせていると、クラレンスは弟の視線が自分が後生大事に抱えている本を捕らえていると悟り、渡してなるものかと言わんばかりにこちらに背を向ける。
「……行こう、兄さん」
テオは疲れたように言った。「お願いだよ。このままじゃ一生家に帰れないよ。早く帰りたいだろう?」
肉の少ない肩を掴む。口調とは裏腹に、そのちからは有無を言わせない強さがあった。
クラレンスにこんな乱暴を働いたのは初めてだ。自分の強引さに胸の片隅がチクリと痛みを感じるが、ここで引いたら一向に状況の好転は望めないだろう。
「痛い、離してよう」
「お願いだ、兄さんを助けるためなんだ」
「嫌!」
ひと際大きな声で拒絶され、テオは思わず面食らった。
「ぼくは……ぼくは長男なんだ。弟たちに頼られる、しっかり者の兄貴でないといけない。だからこの本は渡せない!」
「ああ、そうさ。それは兄さんのものだ。すでに契約は果たされた。もうぼくのものには決してならない。そうだろ? なのに、何をそんなに必死になっているの?」
「……!」
水中から顔を上げた直後のように息を荒げながら、クラレンスは目の縁から涙を飛び散らせ振り返る。
鎌をかけてみた。そしてその反応を見て確信へ変わる。限られた時間に縛られながらの水掛け論は、強引な手法ではあったがついに終わりを迎えた。
なんということであろう。彼はまだ、本との契約を果たせていない。
たちまち空気に冷たいものが混ざる。大気中をか細い氷の張りが漂うよう心地だ。僅かな身動ぎさえ許されない緊迫感に、背筋がじりじりと不気味な熱を持つ。
「兄さん、今ここで契約を。そして外へ出よう」
「できない」
「なんで?」
「わからない……」
クラレンスは小さくなって押し黙ってしまう。自分の身に起こっている異常事態に気付いてはいるようだったが、彼のそのどっちつかずな振る舞いにテオは焦燥感を募らせるばかりである。
問答無用で引っ張り上げたい気持ちを押し殺し、努めて冷静に声をかけ続けた。
「ぼくは兄さんみたいに頭もよくない。人付き合いだって苦手だし、相手が自分に何を望んでいるかなんて一つもわからない。だから今、兄さんを説得する言葉もろくに浮かんでこない」
だから、はっきり言う。
「兄さん、ぼくはその本を奪ってでも、兄さんをここから連れ出すよ」
「嫌だ!」
「じゃあ大人しくぼくと来て。そうすれば本は兄さんのものだし、ここを出てからは、美童さんたちがちからを貸してくれる」
「嫌だ!」
「どうして!」
テオはついに声を荒げ、束の間、周囲には沈黙が訪れる。
クラレンスは心を閉ざしたようにふらふらと立ち上がり、弟へ向き直った。なおも本をきつく抱きしめ、目線はテオから逃げるように一心に爪先へ落ちている。
「もう、嫌なんだ、何もかもが」クラレンスが掠れた声で話し始める。
「何もかも?」
「ぼくは――ぼくはファンフリート家の長男で、弟たちから尊敬されていて、立派な兄でいないといけないのに、それなのに、ああああああああ!」
クラレンスは思うように言葉が出ない苛立ちからか、突然狂ったように叫び出した。
テオは俄かに肩を飛び上がらせて、及び腰になる。
「違う、違う、違う! 嫌なんだ! うんっざりなんだよ! ぼくが長男だからって、何でもかんでも押し付けて! ぼくの下には末っ子の君にとって三人も『兄』がいるのに! なのに全部、ぼく! 学校での雑用も、学級委員をやらされるのもぼく! 勉強を頑張るのもぼく、家のことするのもぼく! みんな、そんなぼくを見ても感謝一つしない! フィンとヤンは捻くれててむかつくし、ルカは餓鬼のくせして大人ぶって腹立つ! ぼくが利口じゃなかったらこの兄弟終わりじゃないか! みんな、ぼくがまとめてあげないと何一つできないくせに! あいつらが
テオが口を挟む暇などなかった。否、返す言葉など一つも思い浮かばなかったのだ。文句のつけようのないしっかり者の兄が、ひた隠しにしてきた本音を明かしている途中で
――これが、兄さんの本音なんだね。
この瞬間、テオはその口元に微かに笑みを刷いていたかもしれない。完璧だと思っていた兄の、人間たる一面をこの自分が引き出せたということに一種の高揚感に似た想いを抱いていたのだ。
クラレンスはひとしきり鬱憤を吐き散らすと、火を噴くような瞳を伏せ、額から大粒の汗を滴らせながら全身で大きく息を繰り返した。
幾度目かの沈黙。凍えるような静寂。
クラレンスは、感情的になって多くのことを言いすぎたことを今更になって後悔したように口を閉ざした。
「兄さんもそう思ってたんだね」
驚いたように口にしたテオが、会話のとっかかりを見つけて続ける。
「フィン兄さんたちのこと。ぼくもそう思ってたよ。正直、真ん中の三人はぼくもあんまり好きじゃない。本当にクラレンス兄さんの弟なのかなってくらい性格に問題がありすぎる」
クラレンスの興味をなるべく逸らさないよう会話を続けた。テオは呆れたように肩を竦めながら、
「ムカつくと思うならさ、帰ろうよ。帰って、意趣返ししてやろう。ぼくもあの三人にはたっくさん言いたいことがあるんだ。今なら全部言ってやれると思ってる。兄さんたちなんか性格が悪いだけで、さして怖くなんてないしね。ナランナ行きの列車の中で会った殺人鬼や、砂漠の巨大サソリの方がよっぽど怖かった」
クラレンスは黙ったまま俯いている。怒りと不安に全身を震わせて、時折しゃくり上げながら沈黙を噛みしめる。
前髪の下から透明の雫がポタポタと落ちた。涙だろうか。
テオは、声をかけるのを躊躇った。きっと今クラレンスは、沸騰した激情を冷ますために努めている。根気強く待って、確実に彼が油断するその瞬間を待つ。
だがそうしている間にも、貴重な時間は刻一刻と過ぎてゆく。
外で美童とキティが無事であるかどうかが気がかりだ。二人が簡単にやられてしまうわけがない、という絶対の信頼はあったが、かと言ってのんびりしていられる状況でもない。
かれこれ一分ばかしが経過した。テオは、つとめて柔らかい声で、言う。
「ね、帰ろう。大丈夫だよ」
クラレンスは黙ったまま、そっと顔を上げると、何かを言いたそうに口を開いた――その瞬間、テオは事前のアクションもなく、唐突に大地を力強く蹴りつけた。タタンッと甲高い靴底の音を奏で上げ、クラレンスが僅かに身を強張らせた一刹那、テオは数歩先にいたクラレンスを巻き込んで地面に倒れ込み、相手の怯んだ隙をついて、兄の腕から本を素早く奪い取った。
クラレンスがあっと悲鳴を上げる。「か、返して!」
「時間がないんだ! 返してほしかったら、追いかけてきなよ!」
テオは伸び迫る兄の手を上手く掻い潜り、外套の裾を翻すと、一心不乱に来た道を引き返した。
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