46. 精霊の名はレイス

 二つの足音が精神世界の中にばたばたと激しく鳴り響き、それに被せるようにしてクラレンスの悲痛な叫びが追いすがる。


「ねえ、待って! 返して!」


 本を奪って逃走を図ったテオ。それを追いかけるクラレンス。ほとんどが咄嗟の思い付きで、とりあえず出口へ急げ、と端的な思考だけを念頭に置いてテオはひた走っていた。


 このまま出口まで逃げ切ればクラレンスを意識の表層へと引っ張り出せる、と算段を立てたわけだが、この状況はどうみても年下の子どもに意地悪をしている悪ガキのようにしか見えず、深い罪悪感を強いられた。


 だが振り返って弁解する余裕などあるはずもなく、運動神経の良いクラレンスから少しでも距離を取るのに必死だった。

 幸いにもクラレンスは常に何かを喚いているせいで体力を消耗しているらしく、テオとの間にある十メートル以上の隔たりが縮むことはなかった。


 一生分の体力を使い果たす所存で重い紙の塊を脇に抱えたテオは、乱れがちな呼吸に時折喘ぐような声を交えながら、走ることだけをプログラミングされた機械人形のように走り続けた。


 早く!

 早く、出口へ!


 ……そう願ってどれほどの時間が経っただろう。あと少し、もう少し、という願いを込めて限界を超えた体力でゴールを目指しているテオを、恐ろしい違和感が襲う。


 道の終わりが一向に見えてこない。

 こんなに遠かったか?

 来るときも長いこと走らされたが、今はそれの比ではなく、走っても走っても進まない無限地獄に囚われている気分だった。


 ――まさか。


 テオはぜえ、はあと呼気にノイズを混ぜながら、ちらりと兄を振り返る。

 返して、返して。そう繰り返してばかりのクラレンス。その様を見て、妙に冴え渡った頭が、一つの仮説を提示する。


 ここはクラレンスの精神世界。いわば、彼の心の中せかいだ。何もかも、宿主クラレンスの思い通り。クラレンスは本を持ち去るテオを何としてでも捕えたい。この世界からはずだ。


 ――そういうことか……。これは、堂々巡り。


 テオをここから出したくないというクラレンスの想いが、うつつと精神世界を繋ぐ一本道にこのような影響を及ぼしているのだろう。


 ――ぼくの体力の限界を促しているんだな。


 しかし、本当にそうなら明らかに分が悪い。

 疲れはもはや感じない。それでも足は重くて持ち上がらない。いつ転んでもおかしくない。息を吸うテンポも乱れに乱れ、脳が酸素を欲しているのがわかる。


 クラレンスに捕まって本を取り返されるのも時間の問題だ。そうなってしまえば、もう二度と彼ら兄弟は外に出ることができないかもしれない。このまま自分もクラレンスと一緒に消滅してしまうのではないか――そこまで考えて、思考の展開を放棄した。考えていても仕方のないこと。邪魔な考えは捨て去るしかない。今考えるべきは、無限地獄からの脱出。それだけだ。


 その時だった。

 すぐ傍で、誰かが喋ったような気がした。

 クラレンスの声ではない。もっと大人の、男性の声だ。耳を澄ませてみたが、自分の息遣いがうるさくて身の回りの音はすべてかき消されてしまっている。


 気のせいかと思ったが、その声は明らかに何かを叫んでいて、何を言っているかまではよくわからなかったが、誰かに呼び掛けている、そんな雰囲気があった。


 ――だれ? ぼくに話しかけてるの?


 胸の中の問いに、謎の声から返答があった。


 ――そうだ、君だ。こっちだ。こっち。


 声のした方に導かれるように視線を向ける。


 本。

 男性の声は、手にした本の中から聞こえてきた。

 なぜそんなところから声が聞こえるのか、誰の声なのか。疑問は多々あったが、その答えは一人で考えても解決する問題ではない。


 テオは脇に抱えた本を胸の高さまで持ち上げた。

 刹那、自分がしようとしていることに僅かな戸惑いを抱いたが、熟考している暇などあろうはずがなかった。疲労の蓄積した頭で、半ば無意識の行動とも言えた。


 ――兄さん、ぼくが助けるから……。


 テオは走る速度はそのままに、適当なところで本を開いた。両のページにぎっしりと書かれたフランス語の連なりが目に飛び込んでくる。

 小さい頃に父の書斎で興味本位で開いたことがあった。現代のマグノリア全体で使われている公用語とも似ていながら、どこか古めかしい雰囲気のある文字列。当時は、そこに何が書いてあるかさっぱりわからなかったが、それは今でも大差ない。


 細い万年筆で記された文字が流れるような字体で白を埋め尽くす。時折ペン先が紙に引っかかったときにできるインクの染みが小さな文字を塗りつぶし、虫食いのような単語を作る。


 左のページの一番下に、薬草か何かのイラストが描いてあった。魔法薬の調理法を記した頁らしい。


「え、と……何をどうすれば」


 あたふたしていると、本の中央――ノドの部分にじんわりと青いインクの染みのような丸がじわじわと広がり始めた。どこから湧いてきたのかもわからず、いきなりのことにまごまごしていると、青い円の中を、毛布の中で居心地悪そうに動き回る猫のように、小さな塊がもそもそと動きだす。


 目の錯覚かと思ったが、人差し指ほどの大きさのそれは確かにそこに存在して、むくりと立ち上がると徐々に人の形を成す。小人のような見た目のは、己の全身を塗り込めた青いインクが下に向かってきれいさっぱり流れ落ちるや否や、風呂上がりの犬のようにぶるぶると頭を振った。肩のあたりで切りそろえられたストレートヘアの中から、細い髪に絡まったインクの残りが小さな粒になって飛び散る。


「うわっ、なんだ?」


 びっくりして声を上げると、その《人》はテオを見上げて歓喜の声を上げた。


『むっ、君はウチの末っ子のテオじゃないか。助かった!』


 若々しい見た目にそぐわない嗄れ声が特徴的だ。


「ぼ、ぼくを知ってるの?」


『当たり前だろう。次のボクの主人になるかもしれない五人のうちの一人だからな』


?」


『名はレイスという。この本の、うーん、精霊とでも名乗っておこうか』


 よろしく、とレイスは言い、次の瞬間にはあ”あーん、と力が抜けるような深いため息を吐く。


『まったく、大変な目に合った。君も、ボクも。護りのまじないもなしにいきなりこんな辺境の地に飛ばされるわ、おかしな低級魔族にとりつかれるわ、散々だったぞ。君もだろ? 大儀を成してここまで辿りついたと見える』


 テオはコクコクと忙しなく頷き、「ええ、ええ、大変でした。いや、今すごく大変です」と切らした息の合間に訴える。


『うん、わかっているさ。全て見ていたからな』


 悠長に言うレイスに、話が早くて助かるとばかりにテオが詰め寄る。


「じゃあ、あの、お願いがあるんですけど」


『うん』


「ぼくに力を貸してください」


 と、その時。


「もう許さない!」


 テオの懇願こんがんに被せるようにして悲鳴に近い怒声が飛んでくるや否や、テオの踵で大地が爆ぜた。


「わあ、何!?」


『クラレンスの奴が本気を出し始めたみたいだな』


「えっ!」


『あの子も必死だな。よほど君に本を取られたくないらしい』


 そうこうしているうちに先ほどよりも激しい一撃が今度はテオの左わき腹のスレスレを掠めてゆく。


「ひぃえ!? あたる! 死んじゃう! どうすればいいんですかあ!」


 半泣きでレイスに訴えると、一方の彼は落ち着いて言った。


『君に魔力を供給する。次の頁を捲れ』


 レイスは本の上から飛んで、テオの頭の上に移動する。

 言われた通りに紙を一枚捲る。ガサガサの紙が乾いた音をたてた。

 左の頁の一番上、太字になっている単語がほんのり白く光を放っていて、テオは言われるより早く、導かれるようにして、そこへ人差し指をそっと這わせた。


 キイィィィィィィィィ……


 心地の良い耳鳴りがテオの髪をざわめかせる。

 白い文字に触れた指先から、魔法の息吹が感じたことのない魔力の熱量となってと胸の奥へ流れ込む。


「やめて、テオ!」


 クラレンスが半狂乱に陥って叫ぶ。彼は察したのだ。テオが何をしようとしているのかを。

 テオは立ち止まる。

 激しい鼓動が鼓膜の傍で鳴り響く。

 胸が熱くなり、眉間の奥で星屑がちらちらと瞬く。星々のぶつかって弾ける音が頭の中を木霊こだました。

 自分の体の中で、生まれたことのない何かが産声を上げようとしている。


 荒くれた息を整えるように大きく肩を上下させ、激しい息遣いの合間、頭に浮かんだ言葉を紡いだ。


Grimoireグリモワール......」


 クラレンスは、テオに飛び掛かった。


「だめええええええ!」


 その瞬間、紙の上に連なる文字が炎のように赤く光り、目が眩むほどの眩い閃光が大波となって世界を満たした。

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