48. テオの魔法

 本から放たれた光を全身に纏い、真実を見つめる大きな双眸の中を、瞬く星の輝きが躍る。

 ざわめいた髪は仄かな薫香を纏った風に巻き上げられ、耳の後ろへ緩やかにたなびく。

 心臓から全身を駆け巡る濃密な魔力の流れを感じ、血の巡りに乗って湧き上がるエナジィが身体を芯から熱くする。


 ――すごい。これが魔力の漲る感覚……。


 テオは人懐こい猫がするみたいにゆっくりと瞬きをし、口元に薄っすらと笑みを刷く。まるで、生まれたばかりの赤子を抱き上げた時のような愛おしさが込み上げてくる。胸に寄り添う小さな温もりが、それと錯覚させるのだろう。


「あ、ああ……」


 クラレンスは幽霊でも目撃したみたいに顔を青くして後退った。絶望に囚われた相貌と形容しても大袈裟ではない。それほどまでに、目の前で起こった事実がクラレンスにとっては衝撃だったのだ。


『よおし、上手くいったようだな』


 レイスが満足そうに手を叩き、テオの頭の上で胡坐をかく。


「これからどうすればいいんです?」と、テオ。兄をその力強い眼差しで見据えたまま訊ねる。レイスはふっと笑って、


『そんなこと、訊かなくてもわかるだろ? 君の中に流れる魔力を、君の思うように使えばいいのさ』


「ぼくの思うように……」


 沈思に耽りかけたその時、クラレンスは目に涙を溜めてくるりとこちらに背を向け、今来た道を逆戻りする。


『あっ、いかん、今度は逃げられるぞ! このままではあのコは自分の内にさらに閉じこもってしまう』


 レイスが前のめりになって切羽詰まったようにまくし立てる。


『追え! 姿を消されたら二度とこの体の主導権を取り返せなくなるぞ』


「ええ!?」


 テオは足を滑らせながら、既に小さくなりつつある兄の背中を追って走り出した。


「兄さん、待って!」


 逆転する立場。クラレンスは今しがたまで全力疾走していたのが嘘のように、途轍もない速さでテオとの距離を稼ぐ。

 間に合わない……! テオの脳裏に浮かんだ望み断つ結末を払拭するように、が浮かんだのはその時だった。


 テオは別段焦った風でもなく立ち止まると、あばら骨が浮き上がるほどの息遣いの合間に、脳裏に浮かんだその言葉を、遥か前方を駆けるクラレンスへ放った。


セルマン=レストリクシオン蔓の束縛


 呪文を種とした細い蔓がテオの爪先から増殖し、物凄い速さで道を覆いつくしてゆく。まるで意志を持った生き物のようにうねうねと標的を追いかけた蔓は、瞬く間に少年の踵をするりと撫で上げ、その足首を捕らえた。いきなりのことに受け身をとれるはずもなく、クラレンスはビタンと前のめりに倒れる。


「やめて、やめて、離して!」と必死になって蔓ごと地面を蹴りつけるも、きつく絡みついた植物性の拘束具は、もがけばもがくほど細い足首を締め上げた。その間にテオは息も絶え絶えにクラレンスを追い詰め、パニックを起こす兄を何とか落ち着けようとその場に跪く。


「ね、兄さん聞いて。大丈夫だよ。ぼくは兄さんを助けたいだけなんだ」


 努めて穏やかに言うが、クラレンスは頑なに首肯することを拒む。


「駄目!」


「何が駄目なの?」


「弟に助けられるなんて……! ぼくは《兄さん》なのに、みんなに頼られる立場なのに! みんなをがっかりさせたくない」


 さっき喚き散らした鬱屈した心情とは真逆な発言にテオは混乱する。頼られたいのか頼られたくないのかどっちだ。……否、その答えは「どちらか」などと単純なものではない。彼の胸を蝕む、両極端な相反した願望なのだ。長兄たる責任感と、自分に向けられた期待へ報いたいという純粋な気持ちだった。


「何を言っているんだよ。そんなことで誰もがっかりなんてしないよ」


「お前にはわからないよ、ぼくの気持ちなんて」


 消え入りそうな声が酷く痛々しかった。しかし、そんな卑屈な物言いにテオは急激に思考が冷めてゆくのが分かった。静かな怒りとも形容できる奇妙な激情が、脳の奥深くで血潮を沸騰させた。


「ファンフリート家の男児は兄さんだけじゃないだろう」


 テオは反論の勢いに任せてその胸ぐらに掴みかかった。クラレンスは、弟の乱暴な行動に思わず言葉を詰まらせる。


 煌めく星を湛えたテオの瞳から、溢れ出るエナジィが火花のように散る。

 兄弟はしばらく黙り込んだまま、しかし互いに視線だけは一切逸らさず無言の時が過ぎゆくのをそのままにしていた。


 やがて、テオがしおらしい口調に戻って沈黙を破るその瞬間まで、クラレンスの両の瞳の中で揺れていた涙の膜は、幼い頬を滑り落ちようとはしなかった。


「ごめんなさい、クラレンス兄さん。いつもぼくは兄さんに甘えてばかりだったね。兄弟の中で一番優しいからって、ごめん、本当に。兄さんが負担に思うのも当たり前だよ」


 急激に力を失う声と同様に、襟元を掴む手からも僅かに力が抜けたが、冷静さを取り戻したクラレンスは抵抗する素振りを見せない。


 テオは深く息を吐いてから、「頭がよくて、周囲から一目置かれて尊敬されて、ぼくとは真反対な兄さんに憧れてた。――憧れていたと思っていたんだ。でも今までの兄さんへの気持ちは憧れなんかじゃなかった。憧れという感情は、であるべきなんだ」


 クラレンスの足首に巻き付いた蔓がするすると解け、テオの靴底へ引っ込んでゆく。

 テオはクラレンスの手を取って、


「何度謝っても気が済まないよ。ぼく、兄さんのようになりたかったのに、全く対等でいようとしなかった。甘えてばかりで、兄さんの隣に立とうとはしなかった。弟なのに」


 テオはクラレンスの目の縁から零れ落ちた雫を指先で拭う。


 対等。

 クラレンスは、その言葉にと胸を突かれた。


 いつも一人で先頭を歩いていた彼には対等でいてくれる人はいなかった。自分の後ろには大勢いて、みんなで楽しそうにしているのに、どうして自分の隣には誰もいないんだろう。


 さみしい。

 怖い。

 失敗は許されない。


 常に気を張って、休まることのない心。責任感が人一倍な優等生の精神は、そんなプレッシャーで押しつぶされそうだった。


 それが今、胸の奥につかえたおりが溶けるように、クラレンスの心は大海原を漂う一枚の葉の心地で、その苦しみから解放されつつあった。


 瞬間、クラレンス自身も悪夢の中を走るようなドロドロした気持ちから一転、狭窄きょうさくした視野が一気に開けるような爽快感に、青ざめた頬にさっと朱色が差す。


「ぼくも大人になるから、どうか許して。自分の言いたいことは自分で――なるべくはっきり主張する。フィン兄さんたちに何を言われたって毅然きぜんとしていられるように頑張るよ。この本を継ぐ兄さんのことを支える一人になりたい。兄さんと、対等でありたい」


 クラレンスは呆けたように瞬きを繰り返したと思うと、弟の真摯な眼差しの中に煌めく星屑と同じ輝きを幼い双眸に宿して、はらはらと大粒の涙をこぼした。そして、「うん、うん」と幾度も頷いた。

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