47. 世界崩壊の序章

 時を同じくして、ここは精神世界の外、世界の果ての中心地。キティが怨敵の気を引きながら時間を稼ぎ、美童が精神世界の影を開く呪文を延々と紡いでいる現実の世界だ。


 あれから一度もファーレは反撃の意思を見せず、防御壁の中から半目でこちらを睥睨へいげいするばかりである。


 何を考えているのかわからない男だ。何が目的で城から逃走したのか。何故、守りの姿勢を崩そうとしないのか。何もかもが不気味で、裏の読めない気味の悪さが拭えない。


 そんなファーレも、ティーグルとの一対一のぶつかり合いに少々飽きてきたと見え、暢気のんきにも世間話を始める。


「どうしたらお前たちは負けを認めるんだ」


 その声にはうんざりした響きを感じた。

 キティは嘲りの表情で応じる。


「負けってなんだよ。負けたことないからわからねえ」


 美童は口の中で呪文を唱え続けながら「法螺吹きめ」と思ったが、わざわざ口に出す余裕もないのでそのままにしておいた。


「そういうお前は。いつになったら降参するんだよ」


「降参、俺が? するかよ。しなきゃいけない要素ある?」


「今ここで白旗上げときゃ、殺し八分目で勘弁してやるって言ってんだよ」


「殺し八分目」ファーレが鼻で笑う。「腹八分目を意識しなきゃいけないお年頃か?」


「ああ、そうだな。もう言うほど若くないもんで」


 奇妙な沈黙が訪れる。

 ファーレは、今までとは違う、無意識下でつい漏れたような微笑を口元に浮かべ、過去を見つめるような目つきになる。


「久しぶりに実体を手に入れたからかな。楽しくなってきた。ずっとお前たちと遊んでいたいとさえ思ってる。止めを刺すのは俺だけどね。目一杯暴れたくてお前たちとの鬼ごっこを楽しませてもらったけど、そろそろこの状況を進展させたいところだな」


 言い終わるや否や、ファーレの攻撃が美童へ放たれた。

 白く光る魔力の塊が、呪文を紡ぎ続ける美童の目の前まで迫っていた。刹那、呪文が途絶えかけるも、視界の端から大きな影が飛び出してきたのを見て、揺らいだ声は直ちに軌道を修正する。


 美童を守るように身を躍らせたキティが、奴の攻撃を魔法で相殺する。光の円盤が刃物のように白い塊を切り裂いた。


「目移りしてんじゃねえよ。お前の相手は俺だろ」


 キティの背中を冷たい汗が伝った。美童の呪文が途絶えた時、精神世界ではどんな影響があるかわからない。彼には何が何でも魔法の言葉を紡いでいてもらわないといけなかった。


 だが不覚にも、ファーレに、美童が魔法を展開しているのが悟られてしまった。もう時間がない。早くクラレンスを助け出さないと、美童という弱点を抱えたまま魔法合戦の終幕を演じなくてはいけなくなる。


 ファーレの魔法の腕前が未知数の今、魔力・体力の大幅消費は控えたいところだ。

 今の自分にできるのは時間を稼ぐこと。ファーレの方から世間話を始めてくれたのは思ってもいないだったが、余裕を持て余した彼がその上であえて自ら時間を提供したのだとしたら、キティの矜持はいたく傷ついた。


「ふふふ」とファーレが少女のように笑う。


「でもまあ、もう十分楽しめたかな。何十年ぶりに外の空気も吸えたし、失われていた魔力ももう殆ど戻ってきた。久方ぶりの目覚めに君たちという犠牲があったことを永遠に忘れないでいてやるよ」


 その瞬間、世界が大きく揺れた。

 大地が割れ、空気が振動し、空が地上に落ちてくる――そんな、世界の終わりを彷彿とさせる衝撃だった。


 キティは思わず膝を折り、美童もぎりぎりの理性で呪文を唱え続ける。この場所でファーレだけが、今まで通りの涼しい顔のままだ。


『主!』


 ティーグルが猛スピードでキティの傍へ戻ってくる。大きな体で主人と美童を守るように身を伏せるとその途端、月の隠れた昏い空を一筋の稲光が引き裂いた。爆発音のような雷鳴が轟き、一気に奪われた視覚と聴覚の外で、まさしく今、この場所を起点に世界の均衡が崩れ去ろうとしていた。


 おぞましい幻覚が美童の視界を横切る。

 地面が割れ、奈落の底へと落ちてゆく己の姿。その口から魔法の言葉が途絶え、精神世界の影が、中に入ったテオとクラレンス諸共飲み込んでしまう。


 砂の海の呑まれ、這い上がることもできない地の奥深くへ。

 誰にも見つけられず、永遠にその場所へ骨を埋める残酷な死に際は、美童にこの上ない恐怖を植え付けた。

 恐怖と理性のせめぎあいの中で、自我を保つために呪文を唱える声が大きくなる。


 集中力が低下し、言葉の合間に不要な息継ぎが入り混じる。

 鼓動の音が鼓膜の傍でうるさく暴れる。

 酸素が十分に行き渡らず、視界がぐらぐらと揺れた。

 

 全身に大量の汗を流しながら、ぎりぎりの精神状態で古の言葉を紡ぎ続ける。喉がカラカラに乾いて声が掠れ、熱いのか寒いのかもわからない極限の狭間で、胸を焦燥の炎に焙られるさなか、突如としてそれは起こった。


 意気揚々と高笑いを響かせていたファーレの動きが鈍った。

 それと同時に地面の揺れが徐々に収まり、雷鳴は遠くへと走り去り、稲光も分厚い雲の中へ隠れ、晴れた空に月がようやく顔を出す。


 一陣の風が吹いて、美童の髪をさらう。

 冷えた風が思考をクリアにする。美童の編み出す旋律が、再び訪れた静寂を裂いた。

 

 ファーレは確実に意識を他所へ逸らされている。身体が思うように動かないのか、錆びたカラクリ人形のようにぎこちない動きをしている。呆然と何事かを口にすると、途端に電池が切れたようにその場に跪いた。


「よし、いいぞテオ……」


 砂の上に精神世界への入り口を開く美童が、額に薄っすらと汗を光らせながらにやりと笑う。


 ファーレの表情に明らかな焦燥の色が差すのを見て取り、キティはクラレンスの中で物事が有利に進んでいることを悟る。


「畜生、あの餓鬼……」


 苦々しげに吐き捨てたファーレはついに、爪先をその場に縫い留められたように一ミリたりとも動けなくなってしまった。

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