18. 小地獄

 夢か幻か。

 否、うつつか。


 ルーイの脳は、視覚から飛び込んでくる光景を素直に受け入れることが出来なかった。受け入れたくないと拒み続けるが故に、脳がそれを拒否していたのだ。


 眼前に展開されるあまりにも凄絶な風景と、己が人を殺めた時に感じた言い知れぬ恐怖が、ルーイの頭蓋を内側から交互に殴りつけるようだった。


 一斉に開眼した無数の目は、夜闇からぼんやりと姿を現すように、それぞれが違う人間の顔となって、ルーイの前に現れた。どの顔にも見覚えがある。かつて心から愛していた八つの美しい顔の面影を残している。自分がこの手で殺した恋人たちと瓜二つなのだ。――それでも、生前の彼女たち印象とは随分とかけ離れ、色香で人間を誘惑する悍ましい女怪の姿そのものだった。


 八つの美しい顔は、美童の肩口や脇腹、膝の辺りで官能的な微笑を浮かべ、情欲に溺れた熱っぽい視線を一心にルーイへ注いでいる。

 人間の姿を捨てた彼女たちは、生前の愛くるしい面影を色濃く残しながらも、噎せ返るほどの艶めかしさの後ろに、隠しおおせようもない恨みと憎しみ、そして殺意を滴らせていた。


「まだまだ降参されちゃ困るぜ、ルーイ」


 キティはジャケットの内ポケットから、紫色に着色されたポプリを取り出し、指先で砕き潰した。乾いた音を立てて砕けたそれは、砂塵となってぱらぱらと床へ降り積もる。


アム……」


 キティの大きな口から短い呪文が零れ落ちる。言霊はキティの身の内にある魔法の泉に滴り落ち、大きく波紋を広げた。眼前の景色の像が歪み、燃え立つ炎が周辺の大気を揺らすように美童の後姿が再び変化へんげする。その姿は、まさしく《化け物》と呼ぶに相応しい。


 美童の身体に巻き付く一匹の大蛇。未だ現世と異界の間の存在として虚ろだったその姿が、その瞬間にうつつのものになった。

 完成されたキティの術は、ルーイの幻覚をも――それ以上の、現実をも凌駕するような異様の光景を築き上げた。


 白い鱗に覆われた蛇腹が笑うように一度大きくうねる。その胴は蛇腹の途中から八つに分かれ、頭部は若い女の頭。耳元まで裂けた口の中からちろちろと細い舌が出たり入ったりしている。


 豊かな髪はぼさぼさにほつれ絡まり、生前はつやっぽく潤んでいた瞳は痛々しい程に充血し、くらうつろを映したように真っ暗だ。


 美しい薔薇の色をした頬は見る影もなく、がさがさにひび割れ赤黒い血が滲み、痩せこけた頬骨が白々と浮いている。


 恋人に裏切られ、あまつさえ未来ある命をも奪われた世にも悲しき乙女たちは、晴れぬ恨みに取り憑かれ、美しくも恐ろしい女怪へと姿を変えて、現世に蘇った。


 ――キャハハハハハ……キャハハハハハ……


 八つの首が口々に歓喜かんきの悲鳴を上げる。大気を震わす甲高い嬌声は、ルーイの鼓膜を激しく揺さぶった。


「うう……、あ、頭が……」


 脳が揺れるような眩暈に意識が飛びそうになりながらも、なんとか踏ん張ってその場に仁王立ちする。その間も、美童がルーイに向かって前進する度に、八つの首は愛した男に近づける恍惚こうこつに打ち震え、さらに大きな哄笑を轟かせた。


「なんて趣味の悪い幻覚を!」


 そう叫んだルーイの相貌そうぼうは、水を被ったように冷や汗に濡れている。目の前がちかちかと明滅する。動揺と恐怖、確信した安寧が指の間からすり抜けてゆくのを絶望し、ズルズルと音を立てて接近するぬめ光る蛇腹に、遺伝子にすり込まれた不快感が肌を粟立たせた。


「現実から目を逸らすな。彼女たちは幻覚じゃない、だ。俺が呼んだ。冥府より呼び寄せたのだ。――よく来たな、レディたち。自分を殺したこの男に言いたいことの一つや二つあるだろう。力を貸してやるよ」


 レディたち……一番目の恋人・ローズ、二番目のソラ、三番目のメイ、四番目のリリス、五番目の明日奈あすな、六番目の希李きり、七番目のセレナータ、八番目の蘭……の、青白い顔に享楽の色が差す。


「なんだ、こんなもの、幻だろう!」


 ルーイは泡を飛ばして叫んだ。脳裏を彼女たちの死に顔がちらつく。

 忘れようとしても忘れることなど到底できようはずもない、人間の死の顔。生命機能が停止した冷たい身体、呼吸をしない口、涙を溜めた瞳を覆う薄い膜、死相――目の前にフラッシュバックする。


「そう思うならこの幻覚を破ってみろよ。お前さんは幻術の申し子なんだろ? それくらい簡単だよな」


 キティのおちょくるような口振りに腹を立てたルーイは、目の周りをカッと赤くした。


「言われなくとも……!」


 ルーイの髪が逆立つ。虚勢を張った殺人鬼の視線が揺れる。気付けの魔法がルーイの額から火花を散らすが、彼の目に映る光景は変らなかった。


「何故だ……何故、解けない」


 キティが鋭い犬歯を覗かせて、「くくく、何度言わせるつもりだ。解けなくて当たり前だろ。この子らはホンモノさ」


「馬鹿なことを言うな。こいつらは、オレがこの手で――……それに、この異様な姿はなんだ。化け物じゃないか!」


「彼女らの怨念がその姿にさせたのさ」


 ルーイは彼女たちの壮絶な死に顔を思い出し、悲鳴を飲み込む。


「ここはマグノリアだぞ。現実リアルじゃ考えられないことが起こったって、何ら不思議じゃない魔法の国なんだ」


「くッ……」


 ルーイは、下唇を噛みしめ、奴の口車に乗るなと己をいましめる。眼前の彼女たちはオレの深層心理から手繰られた幻覚だ。そうに違いない。ならばもう一度、このオレが幻覚でこの場を制してやればいい。


 ルーイは頭の中で魔力の発露を促す。眉間の奥に魔力が集中する。星のきらめきにも似た魔力の粒子は、ルーイの血脈に乗って体の隅々まで行き渡る。自分が作り出せる最強の幻覚で、この列車を再び乗っ取ってやる。


 しかし意気込んだルーイの健闘も虚しく、術が完成することはなかった。全てを手中に収めるような高揚感がいつまで経っても掴めず、焦燥感に駆られ愕然とする。


「無理だ、できない……」


「いい加減諦めな。残念だけど、お前さんの得意とする幻覚合戦はとっくに終わってんだよ」


「……なんだと」


 ルーイの顔に明らかな動揺が走る。それとは対照的に、キティは胸が膨らむような爽快感に頬が緩むのを堪え切れなかった。


「お前さんは今、俺の作り上げたの中に居る」


「小地獄……?」


「魔法の届かない世界だよ」


 その瞬間、車内の灯りが一斉に落ち、車窓から差し込む冷え切った月光が、彼らの半身を冴え冴えとした死の色に塗り替えた。反対側に落ちた濃い影の中で、キティの赤瞳せきとうが燭台に揺れる炎のように赤々と輝く。


「俺はただの魔法使いじゃない。悪い魔法使いなんだぜ。倫理など知ったこと。俺が求め続けるのは、魔法使いとしての唯一無二のちから。それを得るための深い深い渇望」


 周囲の景色に緞帳どんちょうのように闇が覆いかぶさる。月の光も遮られ、果てしない闇が広がり、さながら月のない荒野のような渇いた世界が展開された。


 列車の揺れや走行音すらもすべてが塗り込められたように消え、自分の爪先さえ見失う程だ。


 何も見えない。目を開けているのか閉じているのかさえ不確かだ。それでも、十六の瞳と、毒の魔法使いの真っ赤に光る双眸だけが、死のような暗闇の中にらんらんと輝いている。


 綿密な綿わたの上を歩くように足元がふらつく。

 これが、地獄――小地獄。

使の叡智と狂気が生み出した禁断の魔法。


「この野郎、毒の魔法使い……!」


 憎々し気に吐き捨てたルーイの喉が忙しなく上下する。


「違うね」キティの目に冷徹な色が差し込んだ。「俺は使。キティ。シャ・ソヴァージュ」


「死の……」


「そうだ。俺こそが、マグノリアで唯一、《死》を名乗る男」


 死の世界に、死の高笑いが響き渡る。


 キティ・シャ・ソヴァージュ。

 その正体は、実父である地獄の伯爵、セレン・ソヴァージュの二番目の息子。

 かつて、うろの地の悪魔軍団の大将軍として君臨した父を殺し、悪魔の力を手に入れたの男。


 罪深き魔性の子。

 親殺しの悪魔。


 それが、このキティ・シャ・ソヴァージュという男の正体だ。

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