19. 希望の流れ星

「一体、何が起こっているんだろう……」


 連結扉の小窓からちょこっと顔を覗かせたクラレンスが、囁くように独り言ちる。


 周囲は漆黒の闇に閉ざされていた。上下左右、世界のありとあらゆる存在が闇に飲まれ、少年らの前にぽっかりと浮かんだ丸い窓ガラスだけが常にそこにあり、妙にコミカルだった。


 透明な窓の中には、インク壺を引っ繰り返したような闇が広がっていた。そんな深い漆黒の中に美童とキティ、凶悪な殺人鬼の姿が光を放つようにはっきりと闇の中に存在し、対立している。


 通路や座席は闇の中へ姿を消し、本来の車内の狭さを無視した広大な空間が広がっている。まるで崖の上から広大な海原を見渡しているような気分だ。


 否、それだけではない。美童の様子がおかしい。

 兄弟は息を呑んで目を凝らした。

 彼の痩身そうしんに巻き付くように、白い大蛇がとぐろを巻いているのだ。ただの大蛇ではない。八股に裂けた鎌首の先に、美しくもおどろおどろしい女の青い首が乗っているのである。長い髪はバサバサにほつれ、水中を漂うようにうねっている。何を言っているのかはわからないが、悲鳴とも歓声ともつかない声が甲高く響いているのが窓越しに微かに聞こえた。


 彼らの立っている位置から見えるのは、相対した両者の半身。怯える殺人鬼の顔と、優越感に浸るキティの笑み、深い闇に白々と浮かぶ美童の無表情、八人の美女の妖艶な微笑。

 ここは、地獄を達観して見える位置だ。


「悪魔だ……悪魔の世界だ」


 クラレンスの顔に頬を寄せるようにしながら、譫言うわごとのようにテオが言う。


 キティの展開した上級魔法、小地獄。

 一度の使用で大量の魔力を消費し、冥府の世界から亡者を呼び出す高難易度の技だ。


 美童の役割は、冥府から呼び寄せた亡者たちの依り代として身体を貸すこと。

 半径五百メートル圏内に現世と冥府を融合させ、外界とを隔てる結界を構築する。


 体力、気力共に大幅に消耗し、その魔法を使うに相応しくない者が使用すれば、命を落としかねない。


 ……これを扱える魔法使いは、さほど多くない――否、普通の魔法使いであれば使うことなど到底できない、所謂いわゆる、禁忌の魔法ですらあった。


 列車の外にまで広がった、光を飲み込む暗黒の中では、姿が見えぬ妖鬼、妖魔の類が細長い箱の中に閉じ込められた人間という生餌いきえ舌鼓したづつみを打っている。


 ここは地獄。

 現世に現れた地獄。

 地獄に住まう化け物がうようよいる。


 ――生きた人間だ、肉体を持った人間だ!

 ――久々の踊り食いが出来るな!

 ――あの箱は全部壊すな。手が突っ込めるくらいの穴を開けて、逃げ場を失くしてから捕まえようぜ。

 ――生きたまま喰う目玉は最高だよなあ!


 この世の生き物とは思えないおぞましい嬌声きょうせいに合わせてそんな言葉が聞こえてくる。


 テオはゾッとして車窓の外から目を背けた。姿は見えない。けれど確実にそこには人間を生きたまま喰らおうとする化け物たちが、二進も三進も行かぬ人間たちを狙っているのがわかった。


 逃げ場のない絶体絶命的状況。滅多にかかない汗が服の中をしっとりと濡らす。そのくせ喉は干からびたようにからからだ。


 恐怖に心臓が痙攣し、内側から胸を破らんと大暴れする。

 急速に全身を巡る血液とは裏腹に、新鮮な酸素が滞りがちになり軽い眩暈を誘発した。テオは不可視の壁に縋りつくようにして、闇の中の美童の横顔を見つめた。


 美童を一つの柱にするようにして絡みつく大蛇の化け物。まさしく、魔のなせる技。倫理を一切排斥はいせきした恐ろしい魔法。


 テオはその時、恐怖に慄く感情とは別に、新たな感情が胸を満たしていることに気が付いた。

 一体どういうことだろう。感じたことのない高揚感が心拍に急かされて鎌首を擡げる。ずっと欲しかったものが数年の月日を経て自分の前に現れたような、強烈な胸の高鳴りをテオは感じていた。そして彼は、意外にもこの謎めいた欲求の正体にすぐさま察しがついていた。


 ――ぼくは欲している。


 何を。


 ――魔力を。諦めていた、魔法使いテオ・ファンフリートとしての未来を、本物の大魔法使いたちを前にして、欲している。


 テオの目は小地獄の作り出した闇の中で、それはそれは美しく輝く一等星のようなきらめきを放っていた。


 忘れていた魔法使いへの憧れ。

 ほとんど魔力を持たず生まれ、体内に眠っている魔力の泉は歳を重ねてもなお枯渇こかつしたまま満ちることなく、テオ少年の胸に劣等感の種を植え付けた。


 自分もいつかは自在に魔法が使えるようになるかも……幼い時に抱いていた希望はとうの昔に唾棄だきして久しい。叶いもしない希望など、この上なく忌々しいばかりだった。


 それが今、ないものねだりだと、見て見ぬふりを続けてきた感情あこがれが、禍々しき《死》の魔法を目の当たりにして蘇る。子どもの癇癪のままに打ち捨てた夢を、決まり悪く拾い上げている自分に気が付いた。


 腹の底から込み上げる歓喜に全身が総毛立つ。

 まだ己には《本》という希望が残されている。己が本の継承権を獲得すれば、本に織り込まれた膨大な魔力を、自分の体内へ供給することが出来る。


 幼き頃より思い描いていた理想への道が、深い茨の奥へ通じている。

 大した魔法も使えない、上っ面な《魔法使い》の称号を持て余した自分には未知の世界。しかし、《本》という希望が残されていると理解した今、自分ももれなくその先へ行く資格があるのだ、今まさに自分がその道の上を歩いているのだということを思い知る。


 テオの双眸を、流れ星を思わせる銀の雫が滑り落ちた。自分に残されたたった一つの希望が、自分の夢を叶えるのに必要なものだと確信して。

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